鎮魂は仏教主導で行いたい
天慶九年(九四六年)には菅原道真の託宣が神良種の七歳の子に下った。
「北野の地に吾を祀り給え」
神良種は近江国の比良宮の禰宜であった。良種は北野の朝日寺(東向観音寺)の僧の最鎮に相談した。良種と最鎮は多治比文子に相談し、天暦元年(九四七年)に文子の祠を北の地に遷した。これが北野天満宮になった。文子の一族は北野天満宮の根本建立禰宜となった。
天神信仰には冤罪被害者の道真に共感し、搾取に苦しむ人々の救済を願う民衆の動きと、仏教主導で怨霊を鎮魂させる上からの二面性があった。最鎮は天神を摂関家の守護神とし、菅家氏人と天台僧で北野天満宮を経営しようとした。北野天満宮は朝日寺の神宮寺となり、僧侶が別当職に任命された。太宰府天満宮も明治時代の神仏分離以前は安楽寺天満宮と呼ばれていた。
天神信仰は仏教と神道の要素が融合していた。「祭神も、天満大菩薩として観音菩薩の化身とされた」(伊藤俊一『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』中央公論新社、2021年、158頁以下)。
観音菩薩は仏教の中で慈悲や救済の象徴とされており、これが道真の鎮魂や慰霊においても大きな役割を果たした。その信仰が、道真の冤罪とその後の事件に対する人々の思いや救いを表すものとして重要視された。
道真の冤罪事件は、多くの人々にとって心の痛みとなった。仏教の教えに基づく天神信仰は、その苦しみを和らげる手段として重要な役割を果たした。観音菩薩の慈悲深い存在は、冤罪被害者への哀悼と共に、冤罪を明らかにすることが未来への希望をもたらすものと位置付けられた。
鎮魂や慰霊の儀式では、観音菩薩への祈りと共に、道真とその関係者への思いやりも深く表現された。道真の鎮魂や慰霊の儀式は、仏教と神道の融合によって形成された信仰の一環として行われ、観音菩薩の慈悲の思想が冤罪と事件に対する人々の感情を象徴し、癒やしの要素となった。
道真の孫の菅原文時は天徳元年(九五七年)に夢の中で神聖なメッセージを受け取った。道真の霊は贅沢と飽食が蔓延る世の中に一石を投じることを促した。文時は目が覚めると書庫で数日間を過ごした。文時は贅沢と飽食に関する史書や経典を熟読し、自らの信念と祖先の霊感を融合させることに努めた。そして文時は文字に命を吹き込み、『意見封事三箇条』を書き上げた。
『意見封事三箇条』は以下の三条項で構成される。
・請禁奢侈事(贅沢の禁止を請う)
・請停売官事(売官の禁止を請う)
・請不廃失鴻臚館懐遠人励文士事(鴻臚館を復活し、外交を再建し、文芸を振興することを請う)
鴻臚館は海外からの使節を迎える外交施設である。道真も渤海国からの使節を迎えて応接した。しかし、九二八年に渤海が滅びると海外使節を迎えることもなくなった。渤海滅亡の翌年の延長七年(九二九年)に渤海を滅ぼした契丹人が建てた東丹国の使節が丹後国竹野郡大津浜に来着した。しかし、朝廷は追い返した。使われなくなった鴻臚館は荒廃していた。
満を持して村上天皇のもとに参内する日がやってきた。文時は緊張しつつも、道真の導きを信じ、朝廷で意見書を提出した。村上天皇は興味津々のまなざしで文時の提案を受け取り、ゆっくりと読み進めた。一瞬の沈黙が流れた後、天皇の顔には驚きと納得の表情が広がった。
「これはなかなかの提案だな。この意見書は重要なものとなろう」
文時は心からの安堵の息をつき、道真に感謝の念を捧げた。彼の小さな一石が、世の中に革新をもたらすきっかけとなった瞬間であった。