藤原保忠は冤罪の祟りを恐れたい
時平の息子の藤原保忠は道真の祟りを恐れていた。右近衛大将という武官のトップに就任したが、怨霊は怖かった。右近衛大将は戦闘能力が問われる訳ではなく、儀式の威儀を整える役割である。しかし、保忠は威儀という面でも問題があり、落馬して恥をかいたことがある。落馬して恥をかいたことや、道真の祟りを恐れる心は、彼を常に不安と緊張にさらしていた。
保忠は道真と同じく讃岐守経験者である。延喜一〇年(九一〇年)に就任した。延喜一七年(九一七年)には讃岐権守に就任した。道真とは異なり、共に兼任であり、現地に行っていない。
彼の手紙や書状は、美しい書体で執筆され、遠くの地にいながらも民との交流を大切にした。保忠は詩文にも優れ、遠くの地に住む愛すべき人々に対して、詩の手紙を送ることもあった。保忠は風のような存在だった。遠くにいるにもかかわらず、その存在感は全土に広がり、人々の心に生き続けた。彼の詩は、季節の移ろいや自然の美しさを讃え、讃岐の民はその詩に心を打たれた。
保忠は心の中で葛藤することもあった。現地に足を運ばないことで、彼は一部の人々には理解されないこともあったかもしれない。しかし、彼は自らの信念に従い、遠く離れた地からも愛される守り手であり続けた。保忠の名は後世にも伝わり続けることとなった。讃岐の民は、彼の詩と思いを胸に刻み、後世に語り継ぐのである。遠くの土地にいながらも、彼は讃岐の心の中で永遠に生き続けた。
保忠はある巻物を見つけた。その巻物には、道真の生涯と教えが記されていた。保忠は興味津々で巻物を手に取り、そこに綴られた道真の人生に心を奪われていった。道真は学問と知識の神様として、多くの人々に尊敬されていた。保忠は、その教えに深く心を揺さぶられた。
保忠は巻物を閉じて考え込んだ。彼は自らの恐れを乗り越え、道真の教えを身に纏って立ち向かおうと決心した。保忠は、過去の落馬に恐れることなく、誇りを持って自分の役割を果たしていくことを決意した。
保忠は寒がりであった。寒さをしのぐために様々な工夫を凝らしていた。牛車で参内する際には、焼いた餅を貼り付けることでカイロ代わりにしていた。餅は彼の身体に温かな安らぎをもたらし、寒冷な道のりを和らげてくれた。牛車が参道を進む中、保忠の顔には餅の温かさで優しい笑みが浮かんでいた。
餅が冷えると彼は車副の家来に向かって投げて与えた。家来達は喜び勇んで餅を受け取り、食べることで彼ら自身も寒さをしのいでいた。保忠の心遣いは、家来たちにとっては感謝の念を生む美談となった。彼の優しさと思いやりは、讃えられるべき輝かしい魂の一部として、後世に伝えられていく。しかし、自分の肌にあてた餅を食べさせることはどうだろうか。
保忠は承平六年(九三六年)に病気になる。風の吹き抜ける寒々しい季節の中、彼は病魔と戦っていた。彼を見守る家来達は、心を痛めながらも、力強い回復を願い、僧侶を招いて祈祷のための読経を行うことにした。
僧侶は静かに経文を唱えた。お経の中に「宮毘羅大将」との言葉が現れた。宮毘羅大将は薬師如来に仕える十二神将の筆頭格であり、人々に衣服を与えて満足させる存在として知られていた。
しかし、保忠はその言葉を「縊る大将」と聞き間違えてしまった。その思い違いが、彼の心に暗い影を落とした。彼は自らの首が絞められるのかという恐怖に襲われ、ショックで息を引き取ってしまった。
彼の病魔との戦いは、孤独な闘いでありながらも、家来達に支えられていた。しかし、宮毘羅大将の言葉を思い違いした瞬間、彼の心に疑念が生まれ、その結末は思いもよらぬものとなった。家来達は深い悲しみに包まれつつも、彼の優しさと人間らしさを心に刻んだ。