お帰りなさいませ、旦那さま ~大好きな旦那さまの帰りを待つ犬獣人の物語~
「では行ってくるよ、ワッフル」
「はい、いってらっしゃいませ旦那さま」
武の誉れ高いフェンリル伯爵家の当主ウルフを送り出すのは、彼の専属メイドのワッフル。
焦げたキツネ色の髪には大きな耳が垂れていて、大きな箒のような尻尾がぶんぶんと振られている。彼女は耳と尻尾以外は人族と変わらないが、種族ごとに動物に近い能力や特性を持った、いわゆる獣人。ワッフルは聴覚や嗅覚に優れた犬の特徴を持つ獣人族である。
獣人を一段低く見る傾向があるこの国ではあまり多様な獣人が暮らしているわけではないものの、彼女のような犬の獣人は割と街中でも見ることが出来る。
一般的な種族特性として忠誠心が高いこともあり、執事やメイドなどの使用人として人気があり、貴族家のみならず一般家庭でも家政婦や家事手伝い、子守りなどに雇われていることがあるからだ。
とはいえ人族と同じ扱いをされるには至っておらず、給与も人族に比べればまだまだ安い。
また法で婚姻が禁じられているわけではないものの、変わり者、物好きとして好奇の目に晒されるという状況はいまだに根強く残っている。
それでも、隣国との戦争が続く中、戦場において人族にはない能力で活躍する獣人たちの評価は近年高まりつつあり、国民の意識も変わりつつあるのだが。
「旦那さまがお帰りになる時間なのです」
普段は垂れている耳をピンと立たせ、ワッフルは表通りまで走ってゆく。
旦那さまをお迎えすることは、ワッフルに任せられた大切な仕事で、彼女もそれをなにより誇りに思っている。
ワッフルは表通りに出ると耳を澄ませる。石畳越しに伝わってくる振動で旦那さまの乗った馬車を判別すると、まだ姿すら見えていないのに、ピョンピョン跳ねながら落ち着きなくその場でうろうろし始める。
馬車が見え始めると居ても立ってもいられず、両手を大きく広げて叫ぶ。
「旦那さまあああああ!!! お帰りなさいませええええ!!!」
「……ただいま、ワッフル。お前の声が聞こえてくると、ああ……我が家に帰ってきたんだなと思うよ。いつも出迎え感謝している、本当にありがとう」
ウルフが柔らかい焦げキツネの髪を撫でると、ワッフルは大好きな旦那さまに抱き着きながら気持ちが良さそうに目を細める。
ワッフルは十年前に戦地からウルフが連れて帰ってきた孤児だ。
家族を殺され一人泣いていた小さな女の子を心優しいウルフは放置できなかったのだ。
折しもウルフは妻と生まれてくるはずだった子を同時に亡くしており、その心の隙間を埋めるようにワッフルを我が子のように愛し、育ててきた。
最初は獣人であるワッフルの扱いを懸念する者が多かったが、彼女の天性の明るさやひたむきさに接するうちに、そんな声も自然と消えてゆき、今では他の貴族家からぜひ嫁に欲しいという話が届くほどの人気ぶりである。
もっともウルフはワッフルを手放すつもりは毛頭なく、縁談の話をすべて断り続けているのだけれども。
「ワッフル……今度の戦いは国の存亡をかけた大きなものになる。もしかしたら戻ってこれないかもしれない。だからね、もし私が戻って来れなかったら……自由に生きなさい。わかったね?」
隣国との戦争は激化の一途を辿り、王国は勝敗を決するべく決戦に臨む。
ウルフは自身の身に何かあった時のために、ワッフルを正式に養子とし、財産や権利をあらかじめ彼女に変更していた。その後の一切は執事や信頼できる友人たちに託している。
「はい、わかったのです。旦那さまが帰ってくるまで待ってます!!!」
瞳を輝かせ尻尾をぶんぶん振るワッフルに思わず笑みがこぼれるウルフ。
「……全然わかってないじゃないか。まったく……私はお前が心配だよ」
ワッフルをぎゅっと抱きしめるウルフ。
「ご心配なく、私は元気です!!」
何を心配しているのかわからずキョトンとしながらも、全身で大好きな旦那さまの温もりを堪能するワッフルであった。
「旦那さまがお帰りになる時間なのです」
ウルフが戦地に向けて出発してから半年、今日もワッフルは時間になると表通りへ走ってゆく。
雨の日も風の日も。一日も欠かすことなく。
戦争は終わり、街は元の賑わいを取り戻しつつある。
ワッフルは今日も表通りで耳を澄ます。
決して戻る事のない大好きな旦那さまを迎えるために。
見かねた周囲が何度も説得したものの、ワッフルは決して耳を貸さなかった。自分自身で確認したこと、そして旦那さまの言葉だけが彼女の信ずべきものであったから。
季節は巡り、秋が来て冬が来た。
「旦那さまがお帰りになる時間なのです」
記録に残るような猛吹雪の中、ワッフルは表通りへ向かう。
視界は真っ白、ここ数日で積もった雪が足を掴む。
凍えるような寒さの中、ワッフルは連日何時間も待ち続けた。
ある雪の夜、ワッフルは動かなくなった。
焦げキツネの髪に、箒のような尻尾に雪が覆いかぶさる。
「あれ……? 私、いつの間に倒れていたんだろう」
降り積もった雪を払いながら立ち上がるワッフル。
ゴトゴトゴト……
ワッフルの垂れ耳がピンと立つ。
聞き間違えるはずのない懐かしい音。
「旦那さまだ!!!」
馬車が見え始めると居ても立ってもいられず、両手を大きく広げて叫ぶ。
「旦那さまあああああ!!! お帰りなさいませええええ!!!」
「ただいまワッフル、ずいぶん待たせてしまったね」
何も変わらない優しい旦那さまの声。馬車を駆け上がりその大きな胸に飛び込む。
「旦那さま、旦那さま、私、ちゃんと自由にしてましたよ。毎日お掃除して、お庭の手入れだってちゃんとやりましたし、苦手なお勉強だって頑張って続けてました!!」
「そうか……偉かったね。それに毎日私を迎えに来てくれてありがとう」
「えへへ……あれ? もしかしてどこかから見ていたんですか? 旦那さまったら意地悪です」
大好きな旦那さまに褒められて、嬉しいやら恥ずかしいやら忙しいワッフル。
「あ、今夜は旦那さまの大好きな寒ブリの煮つけですよ。良かったですね、私が料理長に頼んでおいたのです」
自慢げに胸を張るワッフルを愛おしそうに泣き出しそうに見つめるウルフ。
「本当に残念なんだが、屋敷には戻れないんだよワッフル」
「そうなのですか……残念なのです」
しょんぼりと耳と尻尾を垂らすワッフル。
「それでね、今日はお前を迎えに来たんだ。一緒に来てくれるかい?」
「もちろんです!! わーい、旦那さまとお出かけなんて久しぶりなのです!!」
ワッフルを乗せた馬車はゆっくりと空へと昇ってゆく。
「うわあ……見てください旦那さま、街があんなに小さく見えるのです」
「そうだね、これから行くところはもっともっと綺麗なところだよ」
「そうなのですか!! 楽しみなのです」
二人を乗せた馬車は雲を越え星空を越えて、光り輝く宮殿へと辿り着く。
「はわわ……なんだかすごいところへ来てしまったのです」
ビクビクしながらウルフの背後に隠れるワッフル。
「大丈夫、ここは女神さまがいらっしゃる宮殿だよ」
「ひええ……女神さま!?」
おとぎ話でしか知らない存在に驚くワッフルの頭を撫でながら、ウルフは導くように宮殿へと向かう。
『ようこそ女神の宮殿へ』
見たこともないような種類の花が咲き乱れ、常に光が降り注ぐ荘厳な宮殿。
虹色に輝く宝石で出来た玉座に腰かけているのは、銀髪の美女女神イリゼ。
創造を司る女神は、死者の魂を転生へと導く役割も担っている。
「このたびは特別のご配慮誠にありがとうございました」
深々と首を垂れるウルフ。
彼がワッフルを迎えに行くことが出来たのは、他でもない女神イリゼの許しあってのもの。
ワッフルはと言えば、憧れの眼差しでイリゼを真っすぐに見つめている。
『良いのよ。貴方の行いによって多くの命が救われて、私の仕事が楽になったのだから。それからワッフル、貴女も頑張ったわね。何か希望があるならできるだけ聞いてあげるわ』
「えええっ!? 良いんですか? それなら旦那さまとずっと一緒にいたいのです」
『そう……他には?』
「旦那さまと一緒にいたいです」
『……なぜ二回言ったのかしら?』
「大切なことだから二回言いました」
無邪気なワッフルに肩を震わせる女神さま。
『わかりました。特別に二人が一緒に転生出来るように配慮します』
イリゼは紙のようなものにサラサラッと何かを書きつけサインをし、近くにいた書記官に渡す。
いつの間にかウルフとワッフルの姿は宮殿から姿を消していた。
◇◇◇
「……あれ? 夢……だったの?」
強烈な寒さに目が覚める。いつの間にか眠ってしまっていたことに驚きつつも、今しがたまで見ていた出来事を思い出してワッフルは悲しくなる。
ブルブルッっと大きく身体を動かして覆い積もった雪を払う。
頬を流れる涙を拭う。
内容はほとんど覚えていないけれど、とても幸せで楽しい夢だった。
ワッフルはわかっている。旦那さまはもう戻って来ないのかもしれないことを。
『もし私が戻って来れなかったら……自由に生きなさい。わかったね?』
ウルフが最後に言った言葉。ワッフルが何千回何万回と繰り返している大切な約束。
「帰ったら美味しいものを食べてしっかり睡眠をとらないと」
また明日も迎えに来るために、ワッフルは生きなければ、元気でいなければならないから。
ゴトゴトゴト……
ワッフルの耳がピンと立つ。
……旦那さまの馬車の音じゃない。でも……
何だかソワソワする。懐かしい匂いにドキドキが止まらない。
「旦那さまだ!!!」
馬車が見え始めると居ても立ってもいられず、両手を大きく広げて叫ぶ。
「旦那さまあああああ!!! お帰りなさいませええええ!!!」
馬車は違うけれど、匂いでわかる。
ワッフルの前で停車した馬車からゆっくりと降りてきたのは懐かしい笑顔。
包帯を巻いて傷だらけ。ボロボロになった姿は別人のようにやつれてはいたが。
「……ただいま、ワッフル。お前の声が聞こえてくると、ああ……我が家に帰ってきたんだなと思うよ。たくさん待たせてすまなかった。本当にありがとう」
「うわあああん、旦那さま、旦那さま、私、ちゃんと自由にしてましたよ。毎日お掃除して、お庭の手入れだってちゃんとやりましたし、苦手なお勉強だって頑張って続けてました!!」
「い、痛いよワッフル……わかってる、大丈夫、ちゃんとわかってるから」
「わふんっ!? ご、ごめんなさい……お怪我なさっているのに……」
しょんぼりと耳と尻尾を垂らすワッフルの焦げキツネ色の髪を、ウルフは愛おしそうに撫でる。
「ははは、ちょっと肩を貸してもらえれば大丈夫。そういえば今晩は私の大好きな寒ブリの煮つけなんだろう? 早く帰ろう、私たちの我が家へ」
「えへへ……そうなんですよ、今日お帰えりになるんじゃないかって予感がして、料理長に私が頼んだのです!! 市場で私が目利きした一品なのですよ」
「へえ、それは楽しみだね」
帰りが遅いと心配してやってきた家の者たちも合流して、お屋敷には久しぶりに明るさが戻ってくる。その晩は遅くまで明かりと談笑の声が絶えることはなかった。
◇◇◇
『イリゼ様っ!? これ、転生用の用紙じゃないですよ!?』
渡された書類を見て慌てる書記官。
『あら~? 私としたことが……間違えちゃったわ、てへぺろ』
『てへぺろじゃないですよ、誰が調整処理すると思っているんですか~!!』
台詞を棒読みする確信犯の女神に大きいため息をつく書記官。
『あら? 今ならまだ間に合うかもしれないわよ。キャンセルしてみても良いのよ?』
『……見損なわないでください。いくら忙しくたって、心までは亡くしてはいないつもりです。それに……僕は犬派ですから』
眼鏡をくいっと上げる書記官を見てイリゼが微笑む。
『あら偶然ね。私もどちらかと言えば犬派なのよ。そういえば有給溜まっていたわね、その仕事が終わったらゆっくりしてくると良いわ』
大いに喜んだ書記官が奮起しすぎて、ウルフとワッフルはその後幸せになりすぎてしまうことになるのだが……それはご愛嬌ということで。
イラスト:秋の桜子さま