折るもの残すもの
琵琶湖はすっかり暗くなり、沿岸には建物の明かりがそこかしこに浮かび上がっている。同じように新歓合宿に来ているサークルも多いことだろう。
稲原たちのサークルがいる建物では、練習に使っていた多目的ホールに、今はたくさんの低い長机と座布団が配置されている。柏木たちが買い出しに行ってくれた飲み物やお菓子やつまみがそれぞれのテーブルに並べられ、再び席決めのくじを引いたメンバーたちが、ぼちぼち席についている。
真ん中あたりの机に座ることになった稲原は、全員がそろったのを確かめて、立ち上がって呼びかける。
「それでは飲み会を始めます。最初に言っておくけど、未成年は飲酒はだめだよ。上回生もちゃんと見ててくださいね。それから、一気飲みとか危ないこともだめだよ」
「さすが、いなは真面目だなあ」
稲原と背中合わせの席についた柏木がぼやく。ちょっとした笑いが起こり、稲原は仕切り直して、
「まあ守ることは守りつつ、大いに楽しんでくださいね。それじゃあ、乾杯!」
かんぱーい、と明るい唱和を合図に、飲み会が始まる。
稲原は腰をおろして、とりあえずビールを一口飲んだ。自分だけは酔っぱらわないように注意しないといけない。同じ机には四回生の結城と、新入生の吉澤、寺内がいる。
「いやー、いなもお疲れさま」
「結城さん、ありがとうございます。お疲れさまです」
ビニールコップを合わせて改めて乾杯する。新入生二人ともコップを合わせ、二人に分かるように説明しておく。
「結城さんは去年の新歓担当をされてたんだよ」
「そうなんですね」
すっかりなじんできた吉澤が、チューハイの入ったビニールコップを持って嬉しそうにしている。稲原はすかさず、
「待って、お酒飲んでるね?」
「わたし浪人で、誕生日が先週だったんですよ」
「ああ…じゃあいいのか」
「相変わらずいなはしっかりしているなあ」
横座りで楽な姿勢になりながら、結城はごくごくとビールを飲んでいる。この先輩も酒豪で名高い。未成年らしい寺内はお酒が気になるようではあるが、稲原の手前、おとなしくお茶を飲んでいる。
「今年はたくさん来てくれてほんまに嬉しいなあ」
結城はにこにこと言う。長い髪を低い位置で横で結んでいて、今日も安定のお姉さんキャラだ。実際のところ、稲原も結城が同じ机でほっとしている。昨年同じ役職を担当していた先輩というのは、やはりとても頼もしい。
「本当に有り難いですね。ありがとうね、二人も」
吉澤と寺内も嬉しそうだ。良かった。
「実は他のサークルもいくつか見に行ったんですけど、ここが一番落ち着きました」
寺内はちょっと照れくさそうに言う。仏頂面をしていることが多い寺内だが、そういうふうに言ってもらえるのは、新歓担当として素直に嬉しい。
「あと新歓期に見た上級生の中で稲原さんが一番イケメンでした」
「それわかる」
真顔で続ける寺内に、吉澤が真顔で同意する。結城があははと笑って、稲原の背中を叩く。
「だってさ、良かったじゃん、いな!」
「いやそんな……おだてても何も出ませんよ」
恐縮しながら稲原は小さくなる。新入生にそんな直球に褒められても困ってしまう。ごまかすように、とりあえずビールを飲む。
「冗談が言えるくらい打ち解けてくれて嬉しいな」
ビールのおかげでいい躱し方が思いついたので、余裕を取り戻した稲原は楽な格好になり、優雅な微笑みを浮かべる。うわー色男はすごいな、と結城が舌を巻くのは無視する。
それぞれの出身地だとか、出身地トークとか、ゴールデンウィークが明けてみての講義の様子とか、雑談のネタは尽きない。
宴会場ではぼちぼち席を移動する人も出てきているようだ。こっそり見回すと、佐久間は木下らと一緒に騒いでいる。ちょっと酔っぱらって見えるが、まだまだ未成年だった気がするが。まあいいや、と意識を自分たちの机に戻す。
「いなはさあ、失恋の傷は癒えたの」
ひとしきり新入生の話で盛り上がったのち、結城がにやにやしながら突っ込んできた。吉澤と寺内が意外そうな顔をしてこちらを見る。稲原は頬をかいて苦笑する。
「やだな、思い出させないでくださいよ。いい具合に薄れてたのに」
失恋のショックを引きずっているという設定はしばらく続けたい。結城がよその席から強奪してきた日本酒を飲みながら、それっぽく遠い目をしてみる。
「結構長かったよね?」
「そうですね、四年くらい付き合ってましたね」
「え、高校からってことですか?」
目を丸くして吉澤が尋ねる。寺内も目をぱちくりしている。
「そうだね、大学も一緒に京都に来て」
「ふわー……それでも別れることあるんですね」
そんなことあるんだなあ、と吉澤はしみじみ呟く。稲原は後ろに手をつき、参ったなというように笑った。気がつくと、稲原らのテーブルの周りに人が増えている。いい機会だな。
「まあちょっと、しばらくは恋愛する気にはなれないですね」
「そうかー」
今の設定をしっかり宣伝しておく。事故が起きないように予防線を張っておくのは、たぶん誰のためにも有用だ。結城が少し残念そうに見えるのは、単に稲原の勘が鋭いからだろう。周りの人が気付いているかはわからない。
「稲原くんの元カノさんってさ」
不意に丸岡の声がするので、稲原はびっくりして振り向く。いつの間にか稲原のすぐ横のお誕生日席に体育座りをしていた丸岡が、何やら頑張って喋ろうとしている。
「す、すごく美人だったよね」
これはどっちだ。丸岡が彼女自慢を始めようとしているのか、稲原の恋愛する気になれない設定の強化をしようとしてくれているのか。判断に迷って困っていると、丸岡の後ろからにゅっと佐久間が顔を出した。
「すごく美人でしたね!」
「ああ、まあ……」
佐久間まで加わるともう方向性が分からない。天然キャラが集まるとコントロールが難しい。ここは深く考えずに、ちょっと引きずっている男の演技でいこう。稲原は立てた膝を抱え、切なそうな微笑みを作ることにした。
「ほんと、四年も付き合ったのになあ……」
丸岡が我慢できずにうつむく。吹き出しそうになったのをこらえているらしい。どういうパスだったんだ、本当に。けれど他のみんなには十分設定が伝わったようで、少し場がしんみりした。しんみりさせすぎたかな、と反省しはじめたところで、空気を変えてくれたのは結城だ。
「ま、いいことあるって! 元気出しなよ!」
そう言って元気よく稲原の背中を叩く。普通に痛くて、
「痛いです……」
小さくうめくと、笑いが起きた。やはり先輩はありがたい。フラグは、折るけど。
途中でみんな順次風呂に入ったりしつつ、宴会は夜中まで続いた。翌日絶対に寝坊しないために、日付が変わる前には稲原は寝ることにした。やんちゃする人がいないか最後まで見届けたい気はしたが。
宴会場を出ようとした時にはまだ、十数人がいくつかのかたまりになって飲んでいた。石田と柏木と一緒に新入生数人と喋っている佐藤を見つけて、声をかける。
「佐藤、お疲れ。僕そろそろ寝ようと思うけど、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。お疲れさま、ゆっくり休んでね」
「ありがとう。みんなもお疲れさま、おやすみ」
「しっかり寝ろよ!」
「おやすみなさい!」
宴会場を後にして、自分たちの部屋に一旦戻って荷物の整理などをする。廊下に面した洗面台で眠い目をこすりながら歯磨きをしていると、トイレに行っていたらしい佐久間が通りかかった。稲原の姿を見つけてぱっと笑顔になり、
「いな先輩、もう寝るんですか?」
「うん、もう眠くなっちゃった」
「徹夜しないんですか~」
「しないよ。佐久間くんも早めに寝なよ」
えーとか駄々をこねながらも、佐久間は笑って頷いた。あざと可愛い。ずるい。尊い。眠くて自分の表情のガードが緩くなりそうだ。うがいをして、できる限りの優雅な笑顔を浮かべる。
「おやすみ」
「おやすみなさーい」
宴会場へと戻っていく佐久間の足音を聞きながら、自分の部屋に戻る。同じ部屋で、岡田や河村らがもういびきをかいて寝ている。
自分も布団に潜り込んで、瞼を閉じ、さっきの佐久間の笑顔を思い浮かべる。でれっと笑ってしまっても、もう真っ暗だから大丈夫だ。
明日も頑張ろ。
稲原稔はコンプライアンスに厳しい男だ……