夢と朝ビラ
高校の校舎だ。夕焼けが妙に赤い。肌寒くて居心地が悪い。肌寒いのに、変な汗で背中が不快だ。
――聞いてくれよ、稲原からチョコもらってさ。
憧れていた声が、憧れられない声色で話している。嫌だ。聞きたくない。下駄箱の影で、息を潜める。自分は見られていないし、気づかれていない。この先に行きたくない。でも逃げることもできない。足がすくむ。呼吸が浅くなる。鞄を握りしめる手が、震える。
――余ったからとか言ってさ。
――案外本気なんじゃない。
――やめろよ、気持ち悪。
笑い合う声がぐさぐさと刺さる。いびつに歪んで頭の中でこだまする。足が動かない。どちらにもいけない。心臓の音が耳元でうるさい。呼吸ができない。嫌だ。嫌だ。もう消えてしまいたい。助けて――
ベッドから飛び起きて、稲原は深くため息をついた。
久しぶりに見た。嫌な夢だ。これは実際の記憶ではない。高一の冬、バレンタインに勇気を出して用意したチョコレートは、結局片想いの相手には渡さないまま白鳥と交換して終わった。あのまま渡していたらこうなっていたのではないか、という恐怖心が見せる夢だ。
「……久しぶりに見たな」
独り言を言って、髪をかき上げる。
水を飲んで顔を洗い、服装を整えればもういつもの自分だ。コーヒーを淹れてトーストを焼く。皿も洗ってしまって、髪を軽くセットする。腕時計をはめる。鏡の前で笑顔の練習をする。大丈夫、いつも通りだ。
大学に向かって歩きながら、夢のことを考える。
あのあとは、別の人を好きになったんだっけ。でも好きだとばれるのが恐ろしすぎて、これは恋ではなくて推しなんだ、と思うことにしたのだ。白鳥も同じような状況だったから、二人でそれぞれの「推し活」を応援しあっていたのだ。
白鳥が幼馴染でいてくれることは、自分にとって本当にありがたい。家族にだって、とてもカミングアウトできない。一生しないかもしれない。お互いパートナーができなかったら形だけ結婚しとこうか、と白鳥と笑い合ったものだ。そうすれば、あわよくば結婚してほしいと思っているお互いの親もごまかせるというものだ。
白鳥はしかし、熱烈に好きな人を見つけ、猛烈にアプローチして、そして幸福なことに、恋人同士になった。親友として、こんなに嬉しいことはない。――自分には、そういう未来があるとは思えない。
これまでにも何回も、今朝と同じような夢を見た。しばらく見ていなかったのを久しぶりに見たのは、新歓で気が張っていたからなんだろうか。
部室のドアを開けると、朝早くから同期の佐藤が待機していた。
「稲原、おはよ。なんかちょっと疲れてない?」
「佐藤もね」
四月も下旬になり、新歓は折り返し地点に差し掛かっている。新入生にとにかくコンタクトしに行く時期は終わりかけていて、これからは定着を目指した新入生参加型のイベントがいくつかある。ゴールデンウィーク明けに大きなイベントがあって、形式上はそこで新歓期の終了だ。新歓担当の稲原と補佐の佐藤を始めとして、充実しつつも疲労のたまる時期であることは否めない。
「今日朝ビラやんね。これ稲原の分」
「ありがとう。他のみんなは?」
「今日の担当の人はまだ半分くらい」
時計を見る。まだ一限には時間があるが、そろそろ集まってほしい頃合いだ。ふとスマホを見た佐藤が、ちっと舌打ちをする。
「石田、今起きたって。ありえん」
「はは」
石田は大学のすぐ近くに下宿しているので、大急ぎで来れば間に合うだろう。佐藤が怒っているのは、
「せっかく彼女が朝早くから頑張ってるのにね」
「ほんとよ。五分以内に来いって言うとこ」
スマホをタップする佐藤の指先には勢いがある。稲原はなんとなく、あと五分部室で待ってみたい気持ちになるが、おとなしく自分の担当分を回収して準備する。
「あ、今夜の食事会さ」
出ようとしたところで佐藤に話しかけられる。
「私ちょっとどうしても外せない用事があって、任せても大丈夫かな」
「ああ、大丈夫だと思うよ。もうこの時期だしみんなできるでしょ」
佐藤の気配り力は尊敬に値するもので、新歓イベントがある度にどれだけ助けられたか分からない。初めての新歓で最初は慣れなかった二回生たちも、佐藤のおかげでだんだん成長してきているように思う。
「ありがと。稲原は皆勤だけど、大丈夫?」
「まあ新歓委員長だからね」
本音を言えばちょっと休みたくはあるが、全力疾走しないといけない期間はあと一か月もない。肩をすくめて、朝のビラまきに出発する。途中の道で、寝癖のまま大慌てで部室に向かう石田とすれ違った。挨拶もそこそこに走っていく石田がなんだか羨ましく見えて、逃げるようにまた歩き出す。
朝ビラとは、講義が始まる前の教室に新歓ビラを設置していく作業のことである。新歓期の一般教養の教室には各々のサークルがまいたビラがうず高く積み上がっており、裏紙を利用すればノートを買う必要がないほどである。自分が新入生の時は辟易したものだが、新歓担当になった今はこれを見て一人でも多く来てくれればと願いを込めてまいている。
朝は弱い方ではないが、それでも連日新歓イベントやらお食事会やらをしていると、朝の活動は若干こたえるものだ。稲原が朝ビラまきを終えて部室に戻ってきたのは一限が始まる十分ほど前だった。部室には、同じように朝ビラをまいた人たちが何人かいた。
「あっ、いな先輩! お疲れさまです~」
元気よく声をかけてくれるのは佐久間だ。お疲れさま、と優雅な微笑みを返す。今日も推しの笑顔が尊い。早起きしてよかった。疲れも吹き飛ぶというものだ、と心の中で拝んでいると、佐久間は眠そうにあくびをする。
「やーもう眠いわ……帰って寝よう……」
「佐久間くん、一限あるんじゃないの」
二回生の立石が呆れて言う。立石も眠そうだが、右手にはブラックコーヒーのペットボトルが握られている。寝てはならないという強い意志が感じられる。
「単位が早くもやばいという噂があるけど」
「やばい~」
「やばいんかい」
「でも眠い~」
ぐでぐでしている様子も微笑ましい。ノートパソコンと睨めっこしながら朝ビラのまき状況を集計している佐藤の隣に、稲原はよいしょと腰を下ろす。
「いな先輩は単位余裕そう」
ちらっと稲原を見て佐久間が言うので、稲原はそうだなあ、と頬に指を当て、
「まあ、卒業に必要な分はだいたい見通しはついてるね」
「嘘……そんなこと可能なんすか……」
「佐久間くんは、そんなにやばいの?」
「おれは……やばいっすねえ」
なぜか不敵に笑う佐久間に、立石が再び突っ込みを入れている。そつのない男としてやってきている稲原は、逆にどうしたら二回生が始まる時点でそんなにやばくできるのかが分からないし、具体的にどうやばいのかはなんだか怖くて聞けない。
「いざとなったらいな先輩に勉強教えてもらお~」
頭の後ろで手を組んで、佐久間は呑気に言う。稲原と佐久間は同じ工学部だ。まあいいけど、と稲原は頬をかきながら、
「出席はどうしようもないから、やっぱり一限は出た方がいいんじゃないかな……?」
時計を見れば、もう一限が始まりそうな時間である。立石が慌てて立ち上がり、しょうがないか~と佐久間も立ち上がる。部室を去っていく二人を見送って、稲原はため息をついた。
「稲原、最近ため息多くない?」
「疲れてるのかなやっぱり……あと今ので力が抜けた」
力なく笑い合う。それから内心ほっと胸をなでおろす。良かった、佐藤には何もばれていない。勉強を教えるイベントなんて発生したら大変だ。推し成分が過剰になってしまう。佐久間にはちゃんと自力で単位を集めてもらわないといけない。
好きになったって、近づいてはいけない。自分が傷つくだけだ。
これは恋じゃない。推しだ。推し活だ。
「そういえばさ」
部室に二人だけになったタイミングで、佐藤が思い出したように言う。
「石田から聞いたんだけど……稲原って最近彼女と別れたの?」
そう尋ねる佐藤は少し心配そうな様子だ。稲原は後ろに手をついてもたれ、
「そうなんだよ……でも新歓で忙しすぎて、だいぶ紛れてたな」
実のところ、特にここ数日は、しおらしい演技をするのはほぼ忘れていた。おかしくなかっただろうかと思いを馳せるが、まあ大丈夫だろう。失恋どころではないほど新歓が忙しいのは、もはや戦友のような佐藤が一番良く知っている。
「そっか。逆に新歓期で良かったのかもね」
佐藤は稲原がそんなに落ち込んでいなさそうだということを確かめて、パソコンへと目線を戻す。これまでの新歓の状況がまとめてあるファイルだ。稲原もなんとなく画面を眺める。よく見なくても、随時共有しているので内容はほとんど頭に入っている。
「そうかもしれないな。まあ何にしても、しばらく恋愛する気にはならないけどね」
せっかくなので、佐藤にもしっかり設定を共有しておく。佐藤はおもむろに稲原を振り返る。
「新入生から告白されたらどうするん」
「いや、されないでしょ」
「分からんよ、稲原の顔面力が新歓に有利なのは確かだしね」
「顔面力……」
再びパソコンに向き直る佐藤に、稲原は少し笑ってしまう。自分でも多少なり活用しているのは事実だが、こうはっきり言ってくるのは気心知れた同期だからだ。
「まあでも、この時期ですでにそういうノリの子は今のところいなさそうだけどね」
佐藤が冷静に付け加えるのに、稲原も頷く。
「基本、そういう意味では大人しい子が多いね、やっぱり」
「まあ上回生が大人しいからな〜」
「類は友を呼ぶんだよ」
「もっと色んな子がいてもいいとは思うけどね」
「そうだね。まあとにかく、来た子を全力で歓迎することだね」
「そうね」
そろそろ一旦帰ろうか、と稲原が立ち上がる。ちょうどその時、部室のドアが開いて、眠そうな顔の石田が入ってきた。佐藤から漂うイライラのオーラに一瞬たじろぎ、それから佐藤の横ですっと土下座の格好になる。稲原は笑いながら、そそくさと部室を後にした。