お花見日和
桜が満開の広い川辺は、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。まだ少し肌寒い風が稲原の程よくセットした髪を吹き過ぎて、それから、川原に敷かれたたくさんのブルーシートと宴会の準備を始める人々の間を通り過ぎる。薄曇りの空から時折日の光が差し込んで、いいお花見日和だ。
「稲原、こっち全員揃ってるよ」
そう稲原に声をかけたのは、同期の佐藤穂乃果だ。ベージュのカーディガンに、薄いピンクのふわっとしたスカートを着ている。たぶんいつもより気合いを入れて、肩にかかる髪をいい緩さに巻いている。非常に新歓向きで好ましい身なりである。
稲原も今日は春らしい薄手のジャケットを着て、ほどほどに整えている。
「ありがとう。そしたら、始めようか」
鴨川デルタ付近では、そこかしこで大学生がブルーシートを広げている。どのサークルも新歓真っ盛りである。稲原たちのサークルも、今日は新入生と上回生と合わせて中々の大所帯だ。
いくつかのブルーシートと、そこにわちゃわちゃと座っているメンバーを見渡し、最上級に外向きの笑顔で、稲原は呼びかけた。
「こんにちは! 新歓担当してます、三回生の稲原です。新入生の皆さん、今日は集まってくれてありがとう。お花見楽しんでくださいね。お酒はほどほどに、未成年は飲んじゃ駄目だよ。それじゃ、乾杯!」
手にしたビニールコップを優雅に掲げる。かんぱーい、と緩やかな唱和。腰を下ろしてコップのお茶を一口飲む稲原に、早速新入生が話しかけてきた。
「鴨川デルタってなんとなく憧れてました! 早速デルタでお花見できて嬉しいです」
そう言って笑うのは、肩下まで黒髪を伸ばした、印象的な目元の女の子だ。薄緑のワンピースにベージュのカーディガンを羽織っていて、いかにも春らしく女性らしい格好をしている。
「君は、吉澤さんだね。お花見日和にご招待できて良かった」
稲原は優しく微笑みかける。元々こういう笑顔は得意だが、新歓が始まってからというもの、ここぞとばかりに使いまくっている。もちろん戦略的にやっている部分は大いにあるが、目の前で楽しそうにしてくれる新入生の姿は素直に嬉しいものだ。
「デルタでお花見ってめちゃくちゃ大学生っぽいですよね~」
吉澤茜の隣ではしゃいでいるのは、同じく新入生の小川桃だ。二人は早速意気投合したようで、新入生同士が仲良くなるきっかけになれるのも嬉しいし、新歓的にはこういうパターンの方が入団率も上がるので内心ありがたい。
「昨夜は冷えたんで場所取りなかなか大変でしたけどね」
稲原を挟んで吉澤と反対側で、ぼそりと呟いて眼鏡を直すのは、二回生の河村護だ。若干の呪詛がこもったその声色に、稲原は小声で、
「悪かったって……あとでコーヒーでもおごるからさ」
「冗談ですよ。まあ、いい場所取れたんで良かったです」
「本当にありがとうね」
鴨川デルタはお花見の大人気スポットだ。新歓イベントとしていい場所を確保したいサークルも多く、稲原らのようにそれなりの広さが必要な場合は前夜から場所取りを行うこともある。昨夜は最近の中でも特に冷え込んだので、河村ら場所取り班は震えながら夜を明かしたようだ。
「寒すぎて暇すぎて怪談してましたわ」
「より寒くしていくスタイル」
「今はぽかぽかなんで光合成気分ですわ」
無愛想でつっけんどんな河村という男、しかし独特の愛嬌がある。新入生二人は無邪気に、
「河村先輩はおにぎり食べないんですか?」
「おじさんはね、夜中に食べ過ぎて今は食欲がないんだよ。君らは好きなだけ食べなさい」
「お菓子もたくさん用意しているから、本当に気軽に食べてね」
目が据わっている河村の様子にいたいけな新入生がたじろぐ前に、稲原は最上級の笑顔で遮る。二人が一瞬うっとりした顔をしたのは気のせいではないだろう。自分の目立つ顔もこういう時には役に立つ。
十数名で大きな輪になって座っていて、真ん中には上回生で持ち寄ったおにぎりやサンドイッチなどのつまみやすい食事と飲み物、お菓子などが置いてある。酒類もあるので、新入生や一部の二回生などの未成年が手を出さないよう、目を光らせるのも忘れない。
こっそりと辺りを見渡すと、一番離れたブルーシートで、佐久間はこちらに背を向けた場所で新入生との話に花を咲かせているようだ。見なくても分かる、太陽のような笑顔。今日も推しが尊い。心の中でひっそりと手を合わせ、自然と意識を自分たちのブルーシートに戻す。
輪の反対側でも、新入生と上回生が楽しく喋ってくれている。
「寺内くんはどこ出身なの?」
そう言って男子に話しかけているのは、二回生の立石春香だ。朗らかな笑顔が、桜の木の下で映えている。一回生の寺内弘貴は、天然パーマの寝癖頭で、遠慮なくサンドイッチをほおばりながら答える。
「神戸です」
「神戸かあ、いいところだよね! もしかして自宅生?」
「そうなんです。早く下宿したいんですけど」
どうりで眠そうなわけだ。だがそれでもお花見に参加してくれているのはなかなか見込みが高い。仏頂面で素っ気ない話し方の寺内だが、可愛い上回生に話しかけられてまんざらでもない様子なのは隠し切れない。よしよし、と打算的になる内心をちらりとも表面には出さず、稲原はにこにこしながらお菓子をつまんだ。
「稲原先輩は大学に入る前も合唱やってたんですか?」
吉澤がきらきらした目でそう聞いてくる。小川も吉澤の隣で興味深そうな目をしている。稲原はにこやかに答える。
「いや、大学からだよ。ずっとピアノをしてたんだけど、何かみんなでやることがやりたくなって」
「ずっとピアノされてたんですね! ピアノ上手そう」
「上手そう!」
「いやいや、最近は全然弾いてないし、嗜み程度だよ」
苦笑して謙遜しながら、二人の目を見て聞き返す。
「二人はどう?」
「わたしは高校からやってます!」
胸を張って吉澤が答える。積極的に部活をしていそうな雰囲気だし、なんなら部長やってましたとでも言いたげである。ぜひとも欲しい人材だ。下心が表に出ないように、感心した相槌を打ちながら、小川に目を向ける。
「私は、高校はバレー部で、音楽は全然」
「そうなんだ、スポーツやってた団員も多いよ。確かバレーしてた子も……」
「はい! 鬼塚です! またバレーしたい!」
河村の隣からずいっと身を乗り出してきたのは、二回生の鬼塚真昼だ。今日も元気そうだ。
「なお鬼塚は筋金入りの音痴でしたが、先輩たちに教えてもらってましになりました!」
「音痴とまでは」
「情けはいらぬ」
河村との掛け合いで笑いが起きる。
そんなこんなで談笑していると、隣のブルーシートから佐藤がやってきて、稲原の顔を見て腕時計を指さす。稲原が無言で頷くと、佐藤は元気よく皆に呼びかけた。
「じゃあちょっとレクリエーションということで、ビンゴゲームしまーす! 景品もあるのでお楽しみに!」
何人かが佐藤を手伝って、ビンゴカードを配る。レクリエーションが始まったら、しばらくは流れに任せることができる。知らず知らずのうちに、稲原はほっとため息をついた。