神様が
練習場所近くのトイレの鏡の前で、稲原は黒いカーディガンの襟を整えた。頬を上げようとしてみるが、変なふうにしか上がらない。まあもう、いいのだ。合宿で思いがけずカミングアウトしてからというもの、そつのない男を演じきることにもモチベーションがなくなってしまった。
夏休みも終わり、土曜日の午後はいつも通りの練習だ。今日はまた、自分がピアノを手伝う別の曲の練習である。佐久間から誘われて、夜には一緒に飲みに行くことになっている。
稲原は、今日告白してしまってもいいかなと考えていた。軽い感じで、冗談みたいに気持ちを打ち明けて、それで最後にして、自然と距離を置いて諦めて。言わないと諦めがつかなさそうだ、というのが自分のエゴだ。しょうがない、自分は全くもって、そつのない男などではないのだから。
練習場所に顔を出しても、もうさほどみんなの視線も気にならない。気にしないことにした。思うことがある人はいるのだろうが、勝手に悪い想像をしても身がもたない。思いやりを期待するのも今は煩わしい。その代わりに、誰かを気にかけることもできない、そんな日がしばらく続くことも許してほしい。誰に?
欝々とした曲の練習はこちらも欝々としてしまうものだが、今日の気分にはちょうどよかった。パート練習が終わって全体練習の部屋に戻る。ピアノがある曲とない曲の二曲をやることになっていて、ピアノがある曲が先なので、粛々と電子ピアノに向かって準備をする。
「はいじゃあ始めますねー」
前に立つ本田は今日もいつも通りの調子だ。暗い曲をやるのにあっけらかんとしていて、その姿に稲原はなんだかほっとする。アルトの最初の音を渡して、しばしアカペラ部分の練習に聴き入る。歌詞が、今日の自分みたいだ。
譜めくりのために稲原の隣に座っているのは岡田だ。合宿四日目に沈痛な表情をしていた稲原は、帰りにはすっきりとした顔になっていた。それでも、以前のような優しい微笑みはあまり浮かばなくなってしまった。たまに浮かぶ諦めたような笑顔を見るのも、やるせない。今も無表情の、むしろどこか悲しげな、伏し目がちなその長い睫毛を、岡田は密かに心配しながら見る。
稲原が鍵盤に手を置く。シンプルな音型だけに、曲の悲しみや困惑が稲原の指先を通して押し寄せてくるのがよく分かる。短い曲が最後まで進んで、少しの間余韻に浸り、次のアカペラ曲のために岡田も稲原も立ち上がる。
練習が終わって、本田が稲原のところに歩み寄ってきた。何かを手に持っているようだ。無言でずいと押し付けられて稲原が受け取ると、それは紙を結んだようなお守りだった。思わず口をへの字に曲げる稲原に、本田は目を泳がせながら言う。
「適切かどうか分からんけど、持っとけば」
たぶんこれは、縁結びのお守りだ。本田の不器用な優しさが嬉しくて、稲原はくすっと笑った。それを見て本田もにかっと笑う。
「笑ったな。もう買った甲斐あったわ」
「はは……、ありがとう」
そそくさと去る本田の背を見送り、稲原もさっさと練習場所を出る。つくづくいい奴だ。お守りはなくさないように、鞄の奥の方に大事にしまった。
バスに乗って街中に向かう。なるべく知り合いに会わなくて済むように、大学から離れたところで飲むことにしたのだ。佐久間との待ち合わせまではまだ時間がある。バスに揺られてぼうっとしていると、白鳥からメッセージが届いた。
『今夜、私は空いてるからね。必要だったら呼びなさいよ。何時でも』
口元に笑みが浮かぶ。ありがとう、と短く返事をしておく。
河原町の人混みはなんだか落ち着いた。適当なカフェに入って時間をつぶす。道行く人々を店内から何となく眺める。誰も稲原のことを気にしない。自分は今、一人でコーヒーを飲んでいるだけのただの青年だ。行きたくないな、とふと思う。このまま人波に紛れて消えてしまいたい。しかし時間は近づいてくる。時間ぴったりくらいにたどり着くように、席を立つ。
木屋町方面に足を踏み入れてすぐの路地で、佐久間は先に待っていた。見慣れたパーカーにジーンズ。緊張した表情をして空を見上げている。秋口の夕刻はすでに日が落ち、辺りは暗くなりかけている。
「お待たせ」
声をかけると、佐久間はぱっと振り向いた。なんだかぎこちない笑みが浮かんでいる。言葉少なに店内に入り、予約していた席に通される。店内はほどほどに暗く、ほどほどにざわめいていて、そして他の席からほどほどに隔たっている。
なんだかとても日本酒が飲みたい。稲原が日本酒のページを眺めていると、
「日本酒にされます?」
「うーん……飲んでもいいかな」
「付き合いますよ」
佐久間はそんなに強くないはずなので、付き合わせるのも悪い。いや好きなの飲みなよ、と促したが、結局二人で日本酒を飲むことになった。いくつか料理も注文し、早速突き出しと日本酒がきて、ささやかに乾杯する。何に?
「いやー今日もいな先輩のピアノ素敵でしたわ」
日本酒で早速ふわふわしたのか、佐久間が満面の笑みで、場所なりに抑えた声で元気よく言う。明るいその様子に稲原はほっとする。佐久間の方から飲みに誘われて、合宿からすぐの今のタイミングで何の話だろうと身構えていたのだ。単に飲んで喋りたかっただけなら、そんなに気楽なことはない。
「ありがとう、でも普通だよ」
苦笑して返す。思ったより普通に笑えてよかった。
「いやいや、めっちゃ素敵ですよ。合宿中もね、木下とか立石と話してたんです、もういな先輩の弾くピアノになりたいって」
「なにそれ」
おかしくて笑う。木下と立石の顔が思い浮かぶ。変な話だが、あのタイミングでそういう変な話をしてくれていたというのはありがたいことだ。
「てか今日やった七月のやつも、めっちゃ良くないですか?」
「いい曲だね、歌詞ちょっと難しいけど」
「なんか深いですよね、なんか」
佐久間の浅い感想にまた笑う。楽しそうに喋るこの青年の、無邪気な嬉しそうな目元にだって、永遠の子供たちがきらきらと踊っている。このまま時間が止まったらいいのに、と稲原は思った。前にも後ろにも進まずに、このままずっと。
料理が続々と運ばれてくる。野菜が美味しいと評判の店なだけあって、体にも優しそうな美味しい料理が色々ある。普通に楽しく雑談をして、お酒も進んだ。水もしっかり頼んでおいて、特に佐久間には随時水を勧めるのも忘れない。
だいぶお腹も膨れてきた。楽しい時間を過ごせたので、もうこのまま、何も言わないで帰ろうかな、と思い始めていた。稲原のことを知った上で飲みに誘ってくれているのは、少なくとも気にしないということだろう。許されるなら、このまま、静かにゆっくり諦めるのがいいのかもしれない。
「いな先輩は、合宿で吉澤さんに告白されたんですよね」
口元に笑みを浮かべたまま、日本酒のグラスに視線を落として佐久間が言う。
「そうだよ。まあ、僕ゲイだから、申し訳ないけどって断ったけどね」
「その後、吉澤さんとは普通に話せてますか?」
答えに迷う。まだ合宿から日が浅く、練習で顔を合わせる機会はあっても、挨拶程度にしか話していない。でも合宿の夜に食堂横のソファで話した感じでは、いずれ大丈夫にはなるだろう。
「まあ……吉澤さんが嫌じゃない限りは」
自分の杯の日本酒を飲み干す。これで今日はおしまいだな。言えなかったけど、まあいいか。
お会計を済ませて店を出る。まだ街には飲み歩く人たちの姿がたくさんある。どこからバスに乗ろうかと考えながら河原町方面に足を向けると、良かったら歩きませんか、と佐久間がおずおずと言った。
三条大橋を渡って降りて、鴨川の河川敷を並んで歩く。なんだか青春みたいだな。十月の京都の夜はもうずいぶん冷える。日本酒で火照った体が優しく冷えて気持ちがいい。川沿いの建物の明かりがきらきらと揺らめいている。見上げれば三日月が明るく光っている。
「いな先輩、合宿からちょっと元気ないのは」
佐久間がぽつりと言う。虫の声がそこかしこの茂みから聞こえている。
「カミングアウトしたから、なんですか」
地面を見つめてゆっくり歩きながら、稲原は考える。少なくともアライなのでは、と白鳥の言葉を思い出す。誠実さとはなんだろう。
「……ずっと隠して生きてきたからなあ」
口元に笑みが浮かんできた。自嘲気味な。
「今の丸岡の彼女とは幼馴染でさ。お互いを守るために、恋人ってことにしようって、ずっとみんなに嘘ついて。でも彼女は幸せになって、僕は、誰かに手を伸ばせるほど強くなくて」
佐久間は隣を歩いているが、その距離は果てしなく遠い。砂利道を踏みしめる音。
「色々あってカミングアウトすることにしたけど、やっぱりちょっと怖いのかも」
怖い、と自分の口からはっきり出てきて、稲原は身震いした。怖い。間違いなく怖い。いま隣を歩いてくれているこの青年も、眉をひそめて立ち去る日が来るのではないか。その前に自分から遠ざかった方が良かったのではないか。高校の頃に密かにそうしたように。
しばし無言で歩く。三日月の明かりが、すぐ上の道路の街灯が、河川敷をぼんやり明るくしている。虫の声がりんりん響いている。首元を吹いていく夜風が冷たい。稲原は前を向いた。暗い鴨川の、上流からどんどん流れてくる水の音。
「まあでも、隠し事をやめて、肩の荷が下りたところもあるからさ。時間はかかるかもしれないけど、そのうち普通に戻るから。心配してくれてありがとうね」
もう丸太町の橋が見えている。歩けるものだな。そろそろ川端通りに上がろうと、河川敷から出る道に足を向けようとして、佐久間が立ち止まるので、振り返る。
「あのっ」
佐久間は体の横に下ろした手をぎゅっと握りしめて、地面を見ながら言う。
「今は、こ、恋人とか……いるんですか」
稲原は佐久間に向き直る。肩をすくめる。
「いないよ。募集中」
「す、好きな人とかは」
浅くため息をつく。言うなら今なのかもしれない。でもこの優しい青年が離れていくのはどうしても、怖い。
「いるけど、迷惑かけたくないから。秘密」
いたずらっぽく笑って言う。もう今日ここまで一緒に過ごしてくれただけで、幸せだ。最後にいい思い出ができた。ゆっくり距離を置いて、諦めて、そしてアプリででも恋人を探そう。
「どんな人なんですか」
佐久間は稲原を見上げる。そのどぎまぎした表情を見て、ああ、今日も可愛いなあと思う。心のカメラでシャッターをばしばし切る。たぶん今が、神様がくれたロスタイムだ。
「秘密だよ?」
「秘密にしますからっ」
「えっと……笑顔がすてきで、人懐っこくて、優しくて」
言い始めたらぽろぽろと口から出てきてしまう。
「明るくて元気で、一緒にいるとこっちも元気になれる……よく遊んでくれる、可愛い後輩」
自然と浮かんできたのは、いつもの優雅な笑みだった。我ながらずるいと思う。はっきり言う勇気は最後までなかった。へたれ、と罵る白鳥の顔が目に浮かぶ。でもいいじゃないか。頑張ったほうだ。これでおしまいだ。こらえきれなくて踵を返す。帰ろう、と呼びかける前に、ぱっと腕をつかまれる。
「あの、おれの、おれの好きな人の話も聞いてください」
佐久間が大きな目をぱっちり開いて言う。
「背が高くてかっこよくて優しくて、あの、運転も上手で、高所恐怖症で」
つかまれた腕が熱い。三日月の光が佐久間の目に映りこんでいる。
「ピアノがめちゃくちゃ上手で、めちゃくちゃ、もう全部素敵な、先輩なんですけど」
その目がまっすぐ稲原を見ている。
「いま目の前にいる人なんですけど」
風が吹く。
「……本当?」
かすれ声で稲原は尋ねる。佐久間はこくこくと頷く。何度も。稲原はゆっくり瞬きする。虫の声が遠い。
「偶然だね、……僕も」
向き直る。
「きみが好きなんだ」
はにかんで言う。これは、夢だ。ふわふわして現実感がないし。さっきまでうるさいほど聞こえていた虫の声も、車の音も、川の音も、全部が遠巻きにしか聞こえない。なんだか目を潤ませて顔を上気させている佐久間の姿も、全部幻だ。自分の願望が見せる夢だ。飲み過ぎたのかもしれない、でも、いい夢が見られて良かったな。明日からまた頑張ろう。つかまれた腕が放される。一度離れて、佐久間は、稲原に思い切り抱き着いた。
「う、く、苦しい」
稲原が呻くと佐久間は離れた。稲原はげほげほと咳き込む。佐久間は改めて稲原の手を取って、
「本当ですか! あの、リップサービスとかじゃなく」
「本当……だよ、そちらこそ、あの」
ようやく呼吸が整ってきて、しっかり握られた両手をどうしていいかわからないまま、
「彼女いたって言ってなかったっけ……?」
「一瞬いましたけど、やっぱなんか違うなってすぐ別れて」
佐久間は稲原にずいと顔を寄せる。恥ずかしくて稲原は少し身を引く。
「おれ、入学以来ずっと……新歓で声かけてもらってからずっと、いな先輩のこと好きで」
止まらない。
「彼女さんおられたんでノンケだと思ってて、でもずっと好きで、せめて一番仲良い後輩でいようってずっとついて回ってたんです、そしたらカミングアウトされたんで、もうなんか」
一瞬詰まって、
「もうなんか、……それでもおれなんか眼中にないだろうけど、もう我慢できなくて」
うつむいて、顔を上げる。いつも楽しそうな佐久間の、いつにも増して嬉しそうな笑顔の、目尻には涙が浮かんでいる。
「嬉しい……嬉しいです……神様っているんだなあ……」
「……いるのかもね」
稲原も笑った。照れくさくて、もう自分がどういう顔をしているかもわからない。
「いな先輩、好きです……おれと恋人になってくれませんか」
手を握ったまま、佐久間は改めてそう言った。稲原は微笑んで、頷いた。
「僕で良ければ。……これから、よろしくね」
二人のまわりを、秋の夜風が吹いていった。
三日月が静かに照らしていた。
これで一応完結です。ようやく付き合ったなこの人たち……
何パターンか展開を考えましたが、佐久間がヘタれなさすぎてすぐ話が終わるか、稲原が慎重すぎて一生両想いにならないかどっちかになりがちで、書いてるほうもハラハラしました。
本田さんがかっこいいシーンが書けるルートになったので筆者は満足です。本田さんかっこいい。推し。
稲原の設定は盛り気味ですが、なるべくご都合主義にならない話が読みたくて、書きました。
序盤に部室で柏木が言っていたような悪意のない冗談は、本当はもっとえぐいものもたくさんあったと想像してください。書くのも読ませるのも辛いので省略しましたが。
佐久間視点の話、福島くんが出てくる話、岡田や吉澤や佐藤が主人公になる話、番外編で稲原と河村と神田の乗り鉄の旅など、書きたい話はいくつかあるので、またそのうち書くかもしれません。
その時はまたどうぞ、よろしくお願いいたします。