広報活動
新歓を目前にしたサークルの練習というのは、新入生を迎えた時に上回生がある程度どや顔をするために必要である。春休み期間とはいえメンバーは新歓への意欲に燃えていて、帰省だの何だのとも折り合いをつけつつ、練習に参加する人数も多い。
サークルの時間が近づいてきて、稲原はなんだかそわそわしていた。どことなく落ち着かなくて、普段通らない場所のベンチに腰掛ける。水筒から温かいお茶を飲んでほっと一息つく。
大切な友人たちのことを思って快く了承したものの、これまで自分を守ってきた設定を変えるというのはやはり緊張する。
四年も恋人(という設定)でいたのだから、落ち込んでしばらく恋愛する気になれない、というのはまあ筋が通る話だろう。実際は元々が幼馴染で友人、いやむしろお互いの推し活を応援しあう親友という関係だったので、当然ながら別れて落ち込むなんてことはない。これからも定例会議は何一つ変わることなく続けるし。
――しかし、セクシャリティを隠すための設定という鎧がなくなると思うと、やはり不安に思ってしまう。
「……とはいえ、まあしれっと流せばいいんだろうけどな」
咲き始めている桜の花が、時折風に乗って舞っている。美しい季節が来た。遠い目をしていると、視界にがたいのいい男が入り込んできた。
「いなじゃん。珍しいなこんなとこに」
柏木だ。自転車を押して、どこかへ行くところのようだ。やあ、と声をかけて、ちょうどいいタイミングだということにふと気づく。
「ちょっとね。……今日練習のあと、時間ある?」
「あるよ。どうした」
「ちょっと話を聞いてほしくて……」
うつむき加減になってしおらしく言う。少し声が震えた気がする。我ながら演技がうまい。柏木は自転車を止めて、真剣な顔をして稲原の隣に座った。
「俺で良ければなんでも話してくれ、今でもいい」
「本当?」
ゆっくりとした動作で時計を見る。遠慮がちな声色で、少しだけ微笑みを作る。
「じゃあ……十分くらいいいかな」
「いいよ。練習まで大丈夫」
心底心配そうにしてくれる柏木に、逆に申し訳なくなってくる。心配してくれる友人がいるのはありがたいことだし、そんな友人を騙すようで悪い。だがここは仕方がない。稲原は深呼吸して、重い口を開いた。
「実は……彼女に振られてさ」
「……そういうことだったんじゃないかと思った」
柏木は稲原の横顔をじっと見守る。それからそっと背中をさすってくれる。本当に優しい友人だ。敢えて柏木の方を見返すことはせず、蕾がほころび始めた桜の木をゆっくりと見上げる。
「付き合いも長くなって、惰性で……みたいなところは正直あったんだけど。友人としてしか見られなくなった、って言われてさ」
口元を押さえる。そうしなければ、ちょっと笑ってしまいそうだった。進捗待ってるわよ! と親指を立てた白鳥の顔が目に浮かぶ。柏木は少し黙って、何かに頷いた。
「元気出せよ、って、すぐは難しいかもしれんけど。俺も最近失恋して、まだ全然元気になれないからさ。でも大丈夫、お前はいい男だよ。また素敵な彼女できるって」
柏木は真剣な面持ちで、背中をぽんぽん叩きながら慰めてくれる。ありがとう、と小さな声で言って、稲原はうつむいて少し黙った。そうしなければ、でれでれの白鳥と赤面して照れる丸岡の姿を思い出して、にやにやしてしまいそうだった。
「今夜飲もうぜ。二人でもいいし、気を紛らわしたければ何人か誘ってもいいしさ。もちろん今は一人になりたかったらそれでもいい。俺にできることあったら、言って」
「けーすけ……ありがとう。本当いい奴だな」
考える。大勢に騒がれるのは気が進まないが、白鳥と丸岡のことを考えたら、さっさと話が広まってくれる方がいいだろう。先日も飲み会をしたばかりだから、集まれるメンバーは多くはないかもしれないが。
「そうだな……誰か乗ってくれる人がいたら、何人かで飲みたいな」
「よしそうしよう。気晴らししよう!」
膝を叩いて、柏木は立ち上がる。稲原もゆっくり立ち上がった。そろそろ練習に行く時間だ。言葉少なに、二人並んで歩く。
練習場所についても、稲原の演技はさえていた。挨拶してくれる人には儚げな微笑みを返し、事情を話さないまでも何かあったような雰囲気をにじませた。教室の端の方では、すでに女性たちが何人かで噂話をしている。自分でも驚きの演技力だ。唯一丸岡だけは、思いの外しっかりと儚げな様子の稲原に吹き出しそうになり、慌てて顔を逸らしていた。
練習中も、いつもの優雅な笑みが消えた稲原の様子に、他のメンバーはちらちらと視線を向けていた。練習が終わり、同期で同じパートの石田順が稲原に話しかけてきた。
「稲原、今日どうした? 元気ないみたいだけど」
「ああ。ちょっと……」
言葉を濁して目を逸らす。そこに柏木がやってきて、石田の肩に腕を回した。
「石田、今夜空いてるか?」
「ああ、空いてるけど」
「飲みに行こう。一緒に稲原を慰めよう」
石田は眼鏡の位置を直しながら、察したように稲原を見る。稲原は黙ったまま、苦笑してうつむいた。そうしないとにやにやが抑えられなかった。
「どうしたの、そんなに固まって」
三人が集まっているところを覗き込んできたのは、同期の佐藤穂乃果だ。佐藤は石田の顔を見て、何が起きているのか無言で尋ねる。石田は首を振り、
「ごめん、今日はちょっと」
「……ああ、おっけー」
佐藤も察して離れる。少し遠くから何となく様子を伺っていた丸岡に、まるちゃーん帰ろ、と声をかけて帰っていく。
稲原、柏木、石田の三人は、三回生でよくつるんでいる仲間だ。傷心の稲原を慰める(という設定の)飲み会をするなら、この三人はしっくりくるメンバーだ。そこへ、元気な声で寄ってくる男がいる。
「飲み会の気配を感じますよ!」
稲原はぴくっと肩を揺らして、自分の演技がうまく続いていることを確かめた。全然雰囲気を察していないらしく、わくわくした目を向けてくるのは佐久間だ。隣には佐久間と同じく二回生の木下達哉もいる。
「あっ、あれ? 佐久間、そういう感じじゃないっぽいぞ」
「あれ、ほんとですね……どうしたんすか?」
たじろぐ二人に、柏木と石田は顔を見合わせて、
「いなが良ければ、二人も来てもらっても」
稲原は瞬時に考えを巡らす。失恋して傷心の稲原ならどちらを選ぶか。可愛い後輩たちの参加を断るのは稲原らしくない気がするし、人数は多い方が話が広まるのも早いだろう。
「そうだね、二人も空いてるなら……」
そう言って、儚げな微笑みを浮かべることに成功した。いける。推しの前でもこの演技力だ。何しろ、これまで誰にもばれることなくこっそりと推し活を続けてきたのだ。稲原稔は、つくづく、そつのない男だ。いける、いけるぞ、稲原。