設定変更
アイスコーヒーをテーブルに置く。ゆっくり瞬きして、微笑む。
「いいと思う」
「そう言ってくれるとは思ってたわ」
白鳥はしかし、どこか申し訳なさそうな表情をしている。美人はそれでも様になる。
「でも、その。セットじゃない」
「いや、分かるよ。……」
視線を落とす。もう一度上げる。丸岡もはらはらとしている。言葉を選んで、口を開く。
「僕は、基本的には、君たちを応援したい。二人が周りにはっきり言いたいなら、それを尊重したいし、祝福する」
「……ありがとう」
「僕は……どうしようかな」
髪をかきあげる。
稲原と白鳥は恋人同士だ。と、いう設定にしてきた。高校時代から数えて、かれこれ四年ほど経つだろうか。けれど実際は、幼馴染で、親友で、利害関係が一致したためにそう偽ってきたに過ぎない。
いつの間にか、喫茶店の店長が、レジの席から優しい目線を送っている。丸岡は小さく会釈して、白鳥の隣に腰掛ける。この小さな喫茶店の客は、今は稲原たちだけだった。
「わたしは、稲原くんが困るなら、別に黙っててもいいんだけど……」
遠慮がちに丸岡が言う。白鳥はむっとした顔を丸岡に向けるが、すぐに困ったような微笑に代わった。
「亜衣のそういうとこ好き」
「ちょ、美鈴ちゃん」
「目の前でいちゃつかないで」
稲原の透き通ったバリトンボイスが、恨めしそうに喫茶店に響く。店長が笑っている気がする。
「私もね、みんなに言いたい半分、稔を困らせたくない半分なのよ」
「ありがとう……」
稲原は腕を組んで天井を見る。古びた木組みが、ぼんやりとした明かりに照らされて、落ち着いた色合いの影を落としている。外の眩しい明るさとの対比が印象的で、やはりこの喫茶店が好きだなあと思う。
「……でも基本的には、言いたいなら言ってほしい。僕は二人のことが嬉しいし。隠して変な思いをしてほしくないし。僕は……まあ、普通に振られたことにしてもいいな」
アイスコーヒーをもう一口飲む。すっきりとした苦さが心地よい。
「恋人がいない設定に戻すのが久しぶりすぎるな……」
丸岡が物珍しいものを見るように目をぱちくりする。
「まあ、別にそんなに困らないか。長くなって惰性で続いてたことにでもしようか」
「それで大丈夫?」
「大丈夫でしょ……あ、でも時期被ってたことにすると評判悪くならないかな」
「それはまあ適当にうまいことしましょ」
白鳥も丸岡も、少しほっとした表情になっている。自然と、稲原の口元にも笑みが浮かんだ。やっぱり、幼馴染として、友人として、二人が幸せな様子を見るのは嬉しい。
「じゃあ、僕は早めに別れた話を広めることにするよ。その後で、丸岡が好きなタイミングでうちのサークルのみんなに言ったらいいんじゃない。……僕は久々に独り身設定を謳歌するかな」
そう言って伸びをする。まあ、何とかなるだろう。というよりも、別に何も起こらないだろう。なりを潜めて、主役から遠ざかって生きるのは得意なほうだ。
白鳥がぐいっと身を乗り出す。
「そこでレッツ進捗よ」
「いやだよ」
「なんでよ!」
「なんでも何も」
まあまあ、となだめるが、白鳥は楽しそうに指を立てる。丸岡は改めて、視線を気にして、誰もいない店内を念のためきょろきょろしている。いい奴だ。
「尊い推しが! 誰かとくっついてもいいの?! 年下の可愛い推しが!!」
「声、声大きい」
「ずっと推してるのに、今がチャンスくらい思わないと!!」
「美鈴ちゃん、落ち着いて」
立ち上がる勢いでいきいきしだす白鳥を丸岡が押しとどめる。白鳥は仕方なく座る。店長はたぶん、レジの奥で声を殺して笑っている。
「でも、稲原くん、その」
丸岡は言いにくそうに口をもごもごさせる。
「昨日も思ったけど。……たとえば結城さん、稲原くんのこと好きそうじゃない?」
「あー、それはそんな感じかもね」
飲み会に稲原も行くと分かった時の、結城の嬉しそうな顔を思い出す。若干気まずそうに頬をかきながらもすんなり肯定する稲原に、丸岡は少し面食らってしまう。
「何というか、放っておくと被害者が増える気がするんだけど……」
これまで二年間同じサークルで過ごして、丸岡は稲原のモテっぷりを間近に見てきた。多くの女性は稲原に彼女がいるからと諦めてきたが、稲原が別れたと聞いたら。
「……嵐の予感がする」
「まあ、でもしょうがないしね」
稲原は苦笑する。白鳥が、肩にかかる髪を優雅に払いながら言う。
「稔、高校の頃はフラグ折り職人って言われてたのよ」
「フラグ折り職人」
「私と付き合う設定にする前ね。高一のバレンタインやばかったよね。十個くらいもらってなかった?」
「もらってた」
稲原は思い出してうんざりと天を仰ぐ。
「で全員あしらってたよね」
「あしらうって人聞きの悪い。付き合えないのは本当だから、その気がないことを一人ひとり丁重に伝えただけだよ」
「……モテる人って怖い」
自分には想像もできない世界だ、と丸岡は引き気味である。
「そういうのに疲れたから、美鈴と付き合ってることにしたんじゃないか」
「そうね、お互い利のある設定だったわね」
「確かに、ちょっとまた頑張って、事故を未然に防ぐ努力をしないといけないかもな……」
「そこで進捗でしょ!!」
急に身を乗り出す白鳥を、落ち着いて、と丸岡が座らせる。
「でもわたしも、何というか、佐久間くんのこともっと頑張ってもいいと思うよ」
「ちょ、はっきり言わないで推しの名を」
稲原は赤面して、顔の前で手をぱたぱた振る。
「推しの……名は……」
「ちょい、著作権」
「……でも本当に全然知らなかった、稲原くんが佐久間くんを好きなんて」
丸岡はしみじみと言う。
「まあ亜衣からしたら、同期の彼女から口説かれるとも思わないだろうし、彼女持ちの同期男が実は後輩男を推してるとも思わないわよね」
白鳥が何でもないように言う。本当にその通りだ。丸岡がこの喫茶店でバイトを始めたのは一年ほど前で、当時すでに白鳥と稲原は常連だった。二人でいつもこそこそと話をしているのを、仲が良いなあと微笑ましく見ていた矢先、突然白鳥から声をかけられたのだった。
――ねえ、あなた丸岡さんっていうの?
同期の彼女という美女から話しかけられて、丸岡はたじろいだものだ。地味を地で行く人生を歩んできた丸岡にとって、稲原も容姿端麗すぎて若干苦手な部類だったし、その恋人(という設定)だった白鳥は自分と世界線が交わることも想像できないほどの美人だったからだ。
――良かったら、今度二人でお茶しない?
そんなテンプレートのナンパを、まさか自分が、友人の彼女からされるとは夢にも思わなかった。実際その時は友達になりたいという話だと思った(そうだとしても驚いたが)。それがなんやかんやで口説き落とされ、今に至る。
「丸岡が加わる定例会議、最初は新鮮だったなあ」
稲原もしみじみと振り返る。
白鳥と稲原は、二人で会うことを他の人には「デート」と言い、二人の中では「定例会議」と呼んできた。会ってやることといえば、主にお互いの推しについての報告だ。高校生の頃から、それは変わらない。晴れて白鳥と丸岡が結ばれたことで、丸岡も定例会議に参加することになったのだ。
「私も稔も、お互い以外には全然カミングアウトしてなかったからね。稔も仲間が増えて嬉しいでしょ」
「それはそうだね。数か月前には思いもしなかったけどな」
「本当に」
三人でなんだかほっとする。アイスコーヒーの氷が溶けて、からんと涼しい音が鳴った。稲原にとって、定例会議の時間は確かに癒しだ。自分が自分でいられる時間だ。そしてその時間を共にしてくれる白鳥も、そこに加わってくれた丸岡も、とても大事な友人だ。
「じゃあまあ、そういうことで。僕は次の練習の時にでも、美鈴と別れたことを誰かには言うようにするよ。しばらくは、落ち込んで次の恋どころじゃない、っていう設定でいくから」
白鳥がぶっと吹き出す。よほど面白かったらしくげらげら笑う白鳥を、美鈴ちゃんっ、と丸岡がなだめる。同期の健気さが微笑ましい。
「落ち込んで……、しかも稔、演技うまそう……」
「任せて。丸岡も笑っちゃだめだよ」
そう言われると、丸岡もつい、くすっとしてしまう。
「丸岡は、いいタイミングで堂々と宣言してくれたらいいから」
「いや堂々とは……」
「なによ、亜衣が言わないなら私が言いに行ってあげるから」
「それはやめて……」
笑い合う。店長も笑っている気がする。
優しい世界。