推し活はこっそりと?
部室にはそこそこしっかりした電子ピアノが置いてある。稲原の下宿にも電子ピアノはあるが、部室のものの方が弾き心地がいいので、たまに部室で弾きたくなる。グランドピアノを弾きに行くほどの熱意は中々ないが、ちょっと気分転換にしっかりした電子ピアノの鍵盤を叩くのは楽しい。
宵の口の、人のいないタイミングを見計らって、稲原は一人の部室でこっそり電子ピアノを触る。休日はこの時間に誰もいなければ、だいたいはそのまま夜まで誰も来ない。
好きな曲を何曲か戯れに弾いて、それから後期に自分が手伝うことになっている曲も少し練習する。
ひとしきり弾いて満足し、ヘッドフォンを外して伸びをしながら振り返って、思わずひゃっと声を出してしまった。
「なんすかそんな、ゴキブリを見たみたいに」
そう言って口を尖らせるのは佐久間だ。不意打ちの推しの姿に変な挙動をしてしまった。すぐにいつもの微笑を浮かべて、稲原は弁明する。
「ごめんごめん、誰もいないと思ってたから」
「こっそり入りましたからね、おれ」
いたずらっぽく笑う表情も魅力的だ。心の中で拝みつつ、表面上は普通の先輩の振る舞いを忘れない。
いや、どうしよう。部室に二人きりだ。この状況は今までありそうでなかった。万が一にもそういうことがないように慎重に避けてきたからだ。
推し活はこっそりとしなければならず、そのためには推しその人に気配を悟られてはいけない。夏休みで気が緩んでいたのかもしれない。
さっさと帰ろうと荷物をまとめていると、佐久間がうーんとうなっている。見れば、珍しく何かの教科書を開いていた。
「佐久間くん……どうしたの、教科書なんか見て」
「そんな、おれが教科書見てたらおかしいみたいな」
「いや、でも実際珍しいよね? しかも夏休みに?」
単位やばいなーとへらへら笑っていた佐久間のことを思うと、夏休みにわざわざ教科書を、しかも夜の部室で開いているなんて、申し訳ないが驚いてしまう。
「ちょっといな先輩に教えてもらおうかなって」
わざとらしく目をきらきらさせながら、佐久間がすり寄ってくる。稲原は反射的に後ずさる。
「いやあの、一応試験は受かったんですけど、ちょっと本当にぎりぎりでですね。後期のことを考えたら勉強しなきゃなと、一応鞄に入れて持ち歩いてたんですよ、一応。そしたら、ふらっと部室に来たらいな先輩いるから、これは今教えてもらえと神様が言っているのかなと」
拝むように手を組んできらきらと見つめてくる後輩だ。優しい男、稲原なら、それは喜んで教えてあげるのだろうが。
「いいけど……今から?」
時計を見ると、もう21時だ。自分は結構長いことピアノを触っていたのだなと気づく。そういえばお腹も減っている。佐久間は相変わらず、あざとく手を組んでじっと稲原を見上げている。
「思い立ったが吉日という言葉があります」
「あるね」
「でもおれお腹減ってきました」
「僕もだよ」
「とりあえずご飯食べに行きませんか」
「そうしようか」
鞄を持って部室を出ながら、あれあれと考え直す。おかしいぞ、自然とご飯に行くことになってしまった。大丈夫だろうか。まあ大丈夫か。別に男同士二人でご飯に行くなんてよくある状況だ。何も不思議なことはない。自分が普通に振る舞えばいいだけのことだ。
進捗! と親指を立てる白鳥の姿を、頭の中から追い出す。
これはごく普通の、先輩後輩のやり取りだ。
他愛のない話をしながら、大学の近くの遅くまでやっている定食屋に入る。頭がふわふわして、道中何を話したのか、席についたらもう覚えていない。自然と酒のページを眺める佐久間には、しかし、突っ込みを忘れない。
「佐久間くん、未成年じゃなかった??」
「ついこの前、成人したんですよ!」
胸を張る佐久間。
「そっか、おめでとう」
自然と祝福してから、何かがおかしいなと思い直す。
「勉強はいいの??」
「勉強は今度にしましょう」
嬉々として酒を選ぶ佐久間に、稲原は脱力して、それから笑った。元々が遅い時間だったし、まあもう何でもいいか。それならと稲原もビールを注文し、二人で乾杯する。
何て言ったって、夏休みだ。
美味しそうにビールを飲む佐久間には、一応突っ込んでおく。
「……随分飲み慣れてない?」
「やだなあ、そんなことないですよ」
佐久間は気分よくけらけら笑う。もう何も言うまい。今の時点でもう未成年でないのなら、稲原が同席して罪に問われることもない。
「なんか今度ドライブ行くんすか?」
ロコモコのハンバーグを頬張りながら、佐久間が言う。アメリカ風の雰囲気でまとまった店内で、佐久間の横でもネオンのような装飾が点滅している。唐揚げと野菜がたくさん乗ったどんぶりに箸をつけつつ、稲原は頷く。
「そうそう、柏木と石田と話してて。そしたら佐藤と丸岡も来ることになって、せっかくだから二回生も何人か誘おうって話になったみたい」
あくまで自分のあずかり知らぬところで進んだ話ですよ、というのをさりげなく強調しておく。自分はクールな先輩である。いっそ単なる運転手くらいに思ってほしい。
「どこ行くんでしたっけ」
「えっと、結局和歌山になったはず」
メッセージのやり取りを見返す。そうだ、白浜だ。
「白浜で海鮮を食べて、温泉入って、パンダ見ようって」
「海鮮楽しみだな~」
佐久間は頬を押さえてうっとりする。稲原は緩みかける頬を引き締め直す。推しが尊いからって、店内が暗めだからって、表情には気をつけないといけない。
推し活は? こっそりと!
「楽しみだねえ」
頭の中を海鮮に切り替えて、稲原もうっとりと思いを馳せる。ビールを飲む。ビールも海鮮と一緒に飲んだらうまかろう。
店内には他にも結構な人数の客がいた。この時間までやっている定食屋は貴重だ。何かのサークルの活動後らしい集団もいるし、バンド仲間のような人たちもいる。稲原たちのように、友達同士で飲みに来たような人たちもいる。
「なんか突然誘ったみたいで、大丈夫だった?」
あくまで、聞いた話だけど、というていで尋ねる。
「いやもう暇してるんで、むしろ嬉しいです」
「なら良かった。佐久間くんってバイトとかしてるんだっけ」
「してないです、したいんですけど。だから本当に暇なんですよ」
ロコモコを完食してビールも飲み干した佐久間は、満足そうにお腹を叩いている。稲原もビールの最後の一口を飲んだ。もうだいぶ遅い時間だ。佐久間は両手で頬杖をついてご機嫌に言う。
「また今度、勉強教えてくださいよ! なんかお礼にカフェとかでもおごりますし」
「いいよ。お礼は大丈夫だよ」
「いやお礼はします! おれいつでも暇なんで、明日とか明後日でも」
稲原は予定に思いを巡らす。ふりをする。明日も明後日も別に予定はない。しかし、そんなに頻繁に推しに会ってはぼろが出そうで怖い。今だってすでに推し成分が過剰だ。
「じゃあ明後日にしようか」
優雅に笑って答える。一日、頭を冷やそう。そうしよう。佐久間はぱっと顔を輝かせる。
ああなんて無邪気で可愛いんだ。いまこの表情を独り占めしているという事実にくらくらする。いやいや。冷静になろう。
推し活は? こっそりと!
「ありがとうございます! あ、連絡先って」
佐久間はメッセージアプリをたどって、何かのグループトークで稲原を見つけたようだった。これですよね、と画面を見せられて頷く。すぐに、パーカーの胸元で横向きにピースをしているアイコンで、メッセージが送られてくる。友達に追加、と押す親指が震えそうになる。
「また時間とか連絡しましょ」
お会計を済ませて外に出ながら、佐久間は嬉しそうに言った。稲原は外向きの笑顔を返した。生ぬるい夜風が吹いている。手を振って別れ、家路を歩く。
はああ。
今さらながらに赤面して、口元を押さえる。
稲原稔はそつのない男だ。大丈夫、隠し通せるぞ。大丈夫、大丈夫。
「……はあ……」
悩ましいため息は夏の夜に消えていく。
時は少し戻る。
部室の明かりがついているのを見つけて、こんな時間に誰だろうと覗きに行く。外に自転車はない。一足だけ、入り口にきちんとそろえて置いてあるのは、ベージュの綺麗なスニーカーだ。
なるべく音を立てないように扉を開けると、部室の奥で、電子ピアノを弾いている背中が見えた。ゆったりしたサマーニットの半袖からすらりと伸びた腕が、美しい動作で鍵盤をなでている。
大きなヘッドフォンに隠れて、こちらからは目元は見えない。いつも優雅な微笑を上着のようにまとっている薄い唇が、今は特に感情なく、どこか無防備に結ばれている。
佐久間はそっと腰を下ろし、ピアノを弾く稲原の後ろ姿にしばし見惚れた。
新歓で忙しかったためだろう、前期は稲原がピアノを弾く曲がなくて、久しぶりに見るその様子はやっぱり独特の色気がある。
目を凝らして、ピアノに立てかけられている楽譜を見る。
ああ、後期にやる曲だ。よりによって、恋の歌だ。
しばらくして、思い立って鞄から適当な教科書を取り出す。ただ見惚れているなんて怪しすぎる。勉強を教えてもらいたかったことにしよう。いま勉強していることにしよう。
教科書を膝に置いて、美しい先輩の姿に視線を戻す。時計の音が邪魔だ。耳を澄ませば、ヘッドフォンから漏れ出て、ピアノの音が聴こえる気がする。
稲原の指が、ふいに楽譜の上をすべる。ピアノではなくて合唱部分を見ているようだ。長い指が歌詞をたどり、悩ましげなため息が漏れ、それから、困ったような笑みが薄い唇に浮かぶ。
気がついたら佐久間は息を止めていた。細く吐きながら、心臓がどきどきするのを自覚する。再び鍵盤の上を踊り出す稲原の腕は、先ほどよりももっと滑らかになっていた。
どれくらいそうしていただろう。稲原がふと指を止める。手を下ろし、満足げに息を吐き、背筋を伸ばしてヘッドフォンを外す。佐久間は慌てて教科書に目線を向ける。ひゃっと変な声がして顔を上げる。
「なんすかそんな、ゴキブリを見たみたいに――」