花火
鴨川デルタの尖ったところは、花火をするのには絶好の場所である。石組みで覆われた地面は引火の心配もないし、両側を賀茂川と高野川が流れているその水音も心地良い。
結局暇なメンバーが十数人も集まってきて、わいわいと花火を楽しんでいる。稲原も来たからには、
「ごみは絶対落としちゃだめだよ。ちゃんと終わった花火はバケツに入れるんだよ」
ついつい、保護者のように目を光らせてしまう。はしゃいでいる皆は聞いているのか分からないが、今のところ粗相をしているメンバーはいなさそうだ。
稲原はベンチに腰掛けている。夜になっても蒸し暑く、時折蚊が飛んでくる。向こうでは、次々に色が変わる花火を三本くらい一気に持った佐久間が、大喜びで腕を振り回している。想像通りの姿で微笑ましい。
一回生も何人か来ていて、佐久間の真似をしている。度が過ぎる前に注意しに行こう。
ふと、稲原の隣に腰を下ろす人がいる。本田だ。コンビニに寄って買ってきたらしいコーラのペットボトルを開けて、ぐびぐび飲む。
「稲原にインタビューなんだけどさ」
「なに?」
本田がこういう風に稲原に話しかけてくるのは珍しい。切れ長の黒い目に、花火の光がちらちらと映りこんでいる。
「失恋ってどんな感じ?」
恋愛は分からない、と昼間に言っていたのを思い出す。どんな感じ。稲原は顎に手を当てる。春に彼女と別れた、という話を念頭に聞かれているのならば、実際のところ自分にもそれらしい感想は全然ないのだが。
「うーん……世界が崩れるような感じかなあ」
何となく口にしてから、大げさな言い方をしてしまったと気恥ずかしくなる。高校生の頃、告白することなく終わった恋はそんな感じだった。でも考えてみればそれっきりだ。それから後は、崩れるほどの世界を作り上げないように注意して生きてきたのだ。
世界が崩れる。と、本田は反芻する。
「世界があるわけだな」
「なんか恥ずかしいこと言ったわ」
「いや、なんか理解できる。ありがとう」
そういえば、本田は色々な人から恋愛の話を聞くのが好きだとも言っていた。恋愛に関する小説や映画を鑑賞するのも好きだと。稲原は進んで恋愛作品を鑑賞することがないので、本田の熱意は面白いのだが。
「本田は、恋愛は分からないって言ってたね」
「そうなんだよなー」
コーラを自分の横に置いて、本田は足を組む。
「稲原は百戦錬磨って感じだよな」
「どこが」
苦笑する。百戦錬磨どころか、本当はただの一度もうまくいったことはない。
二人はしばし黙り込んで、楽しく花火をするみんなを眺める。吉澤がちょこんとしゃがんで線香花火をしている横に、晩ご飯のタイミングで合流してきた一回生の小川も加わる。丸岡も線香花火を持ってきたようだ。
色の変わる花火で光文字を作ろうと頑張る佐久間を河村が撮影していて、その様子を岡田が笑いながら見ている。
「なあ、稲原」
みんなの方を見たまま、本田がぽつりと言う。
「岡田ってさ、僕のこと好きなのかな」
稲原は驚いて本田を見る。中性的な横顔は、屈託なく笑う岡田の姿を見ているのだろうか。言っていいものか迷いながらも、稲原は口を開く。
「……僕が見ている分には、そう見えるけどね」
「やっぱりそうか」
沈黙。風の音と、川の音。それから、みんなの笑う声。
河村がおおっと声を上げて、河村のスマホを覗きこんだ佐久間が喜んでいる。何かは知らないが目指すものができたのだろう。腹を抱えて笑っていた岡田が、ふと、ベンチに座る稲原と本田に気づいて、慌てて目を逸らす。まあ、岡田は確かに、分かりやすい。
「でも申し訳ないな。僕、ほんとに分からんのよな」
本田は嘆息した。コーラを手に取り、また飲む。ごくごくと嚥下するその喉は女性らしく、か細い。けれどたぶん、僕と自称する本田は、ポーズではなくて自然とそうしているのだ。
不意に稲原も自分のことを言ってしまいたくなる。けれど、喉まで出かけた本当のことは、唾とともに飲み込まれた。
「言っちゃ難だけど、僕結構モテる方だと思ってて」
代わりに別の言葉を差しだそう。稲原が意外なことを言い出したので、本田は期待に満ちた顔を稲原に向ける。
「相手が自分のこと好きそうだなって、何となく分かる時があるんだけど。そういう時は、相手の傷が小さくて済むうちに、こっちにはその気がないってことをさりげなくアピールするようにしてるんだ」
「へえ、強そう」
間の抜けた感想が心地よい。小さく笑って、稲原は続ける。
「結果的に相手の傷が小さく済んでるのかは知らないけど。今のところ、大きな事故は起きていないと思う」
「具体的にどうやるの?」
「彼女ののろけ話をするとかね。まあ、もう別れたけど」
「なるほどなー」
それは僕には使えんなあ、とからから笑う本田。
「面白い話してくれてありがと」
立ち上がって、本田は佐久間たちのほうに歩いて行った。色の変わる花火を四本くらい持ったらしい。河村が撮影する前で、佐久間と同じような動きを佐久間より上手にやっている。佐久間は悔しがって、岡田がそれを見てまた笑っている。
稲原は目を細めて彼らを眺めた。今の時間がずっと続けばいいのに、と何となく思う。
「稲原さん」
気がつくと、線香花火を手にした吉澤が横に立っていた。ワンピースの裾が風に揺れている。
「一緒にやりませんか」
少し照れたような声色に、心のどこかでアラームが鳴る。稲原は優しく微笑んだ。相手の傷が小さくて済むうちに、さりげなく。
「いいね。このへん風があるから、みんなが固まってるあたりでやろうか」
ゆっくり立ち上がって、線香花火を受け取って、丸岡や小川がしゃがみこんでいるあたりに向かう。振り返ると、一歩遅れて吉澤もついてきた。みんなで輪になって、線香花火の小さい灯りを見つめる。
ふつふつと揺れる小さな溶岩のような光は、大きくなって、しぼんで、やがて落ちていく。