部室
特にやることがない日には、意味もなく部室に顔を出したくなる。大学構内は蝉の声があちこちで響いている。むしっとした空気と照りつける日差し。これ以上ないほどに、夏だ。
部室の扉を開けると、期待通り、暇そうなメンバーが何人かごろごろしていた。広くはない部室のカーペットにトランプが並べられて場所を取っている。各々のペットボトルが立ったり転がったりしている。扇風機がのどかに首を振っている。
「稲原じゃん、やっほ」
そう声をかけてきたのは、同期の本田薫だ。刈り上げた襟足と斜めに垂らしたボブが決まっている。Tシャツにジーンズのラフな格好であぐらをかいて、トランプを扇のように持ってぱたぱたしている。
その横では岡田が、難しい顔をして床に積み重なったトランプを見つめている。
「本田、また髪切った? 決まってるね」
床が混み合っているので、稲原は電子ピアノの椅子に腰かける。本田はにかっと笑って、おもむろに岡田の肩を叩いた。
「ほら、稲原はやっぱ違うぜ」
「うるさい、どうせ俺はデリカシーのない男だよ」
「稲原、こいつ何て言ったと思う? 『なんか今日サイコパスみが強い』って!」
岡田は本田を見ようともせず、悔しそうにトランプと睨めっこしている。
「今日も仲良いね」
稲原は思わず笑ってしまう。岡田の後ろには後期の楽譜が散乱している。おおかた、真面目に曲を見ようと思って部室に来た岡田が、暇をつぶしにきた面々に巻き込まれているというところだろう。いかにも体育会系な見た目だが、岡田はマメで真面目な男だ。
「稲原さんもやりますか?」
嬉しそうに稲原を見上げるのは、一回生の吉澤だ。新歓の初期から定着してくれた吉澤は、この頃はすっかり部室の住民になっている。自主練もよくしているし、遊びもよくしているようだ。黒髪のポニーテールが涼しげだ。
「じゃあ次からやろうかな」
岡田が考えた末に出したトランプに、あっさりとトランプを重ねたのは河村だ。よれたパーカーに黒いズボンがいかにも大学生な身なりである。眼鏡を触りながら、河村も顔を上げる。
「稲原さんは帰省するんすか」
稲原は腕を組んで天井を見た。
「あー僕は、今回はいいかな」
「帰省しないんすか?」
「親と話すのがめんどくさい」
鞄から水筒を出して冷茶を飲む。
「春に別れた彼女が、実家同士が徒歩五分の幼馴染でさ」
「近い」
「そうなの。家族ぐるみの付き合いだったし、帰ったらうるさく言われそうだから、一回パスかな」
白鳥はすでに、彼女ができたことを嬉々として母親に言っているそうだ。中学生からずっと母子家庭できょうだいもいない白鳥だが、母親は何でも話せる間柄で、この機会にカミングアウトもしたらしい。
だが稲原の両親には詳しい話は伝わらないようにしてもらっていて、稲原の実家では単に別れたという話になっている。稲原は実家ではカミングアウトしていないし、今後もするつもりはない。
「それは確かに面倒ですね」
珍しく、河村の眉間に若干の皺が寄っている。一方ごく普通の表情をしている稲原を、不思議そうに吉澤が見上げる。
「稲原さんは、次のラブはないんですか?」
考え込むふりをした後、稲原は苦笑した。咄嗟の演技力には定評がある(自分の中で)。
「いやー、しばらくは恋愛はいいかな」
「もう新歓も終わったしありなのでは」
妙に煽ってくる河村が面白い。稲原は肩をすくめてみせる。
「四年も付き合ってたのにって思うと、なんかね、もういいかなって」
「俺もそんなこと言ってみたいわ」
ため息をつくのは岡田だ。
「こちとら彼女いない歴イコール年齢の男だぞ」
「僕も僕も」
便乗して本田も手を挙げる。岡田は本田を横目で見る。
「お前はなんか違うだろ」
「違うのかな? 恋愛してみたいぞ」
「本田さんは男性にも女性にもモテそう」
河村の後に出すカードを悩みに悩んでいた二回生の鳥越恭子が、ファンの顔をして本田を見ている。鳥越は宝塚鑑賞を趣味として自己紹介の最初に述べる女で、中性的なお洒落を好む本田のファン筆頭をサークル内で公言している。
本田は頭の後ろで手を組んで、伸びをした。
「モテるけど、恋愛は分からんのよなー」
「……俺もそんなこと言ってみたいわ」
恨めしそうな岡田の様子に、笑いが起こる。
このどこへも行かない、時間に追われることもない空気感が、大いに夏休み的である。稲原もトランプに加わり、河村から乗り鉄の旅に勧誘されたりしていると、部室のドアががらがらと開いて元気そうな青年が顔を出した。佐久間だ。
「はーなび、はーなびっ」
楽しそうに歌いながら入ってくる佐久間の手には、何やらたくさんの花火がある。続いて木下も入ってきて、二人の手からコンビニのビニール袋に入った大量の花火ががさがさと部室の床に置かれる。
「夏休みといえば花火ですねえ皆さん!」
木下が上機嫌で言う。河村が眼鏡を直しながら、
「昼間から??」
「やだなあ、夜やるに決まってるじゃないか」
「佐久間が夜まで我慢できずに買うだけ買っちゃったのよ」
稲原は目を細める。これは戸口が眩しかったから細めたという演技だ。今日も推しがあほ可愛い。尊い。ふらっと部室に来てよかった。
「呟いとこ、今夜花火をするぞいっと」
どっかり腰を下ろした木下がスマホをぽちぽち操作する。何となく時計を見るが、まだ十五時くらいだ。みんなで適当に晩ご飯を食べてそのまま花火をしに行く話が進んでいるところ、稲原は立ち上がって外に出る。
「いな先輩、花火しませんか?」
部室から顔を出して佐久間が声をかけてくる。実のところ稲原はとても行きたい。花火を振り回してはしゃぎ散らかすだろう佐久間をすごく見たい。でもあまり一緒にいるのはぼろが出そうで怖いのだ。
言い訳を考えて逡巡しているその隙に、横からぬっと丸岡が現れた。
「花火するんだ」
「まるさんもしますか!」
「今夜なら行く! 稲原くんも行くよね?」
丸岡が稲原をじっと見て言う。圧がすごい。
「いやその」
「行くよね?」
本当にどんどん白鳥に似てくる。稲原は引きつった笑みでこくこくと頷いた。
「ちょっと用事があるから、じゃあ、また夕方にでも戻るよ」
「わーいやったー」
佐久間が嬉しそうに部室に戻っていく。丸岡は満足げに頷いてにやっと笑った。稲原のこめかみを汗が一滴流れていった。