春休みはゆったりと流れる
稲原稔はそつのない男だ。サークルでは気配りができるしっかり者で通っているし、学生実験も稲原のいる班は進みが早いと評判である。医学部にとてつもない美人の彼女がいる。服装はいつも清潔感があるし、すらりと伸びた背に整った甘い顔立ちはいつも注目を集める。誰からも頼られる信頼感と誰からも好かれる性格、初対面の人とでも打ち解ける社交性を買われ、三回生になるこの春、サークルの新歓委員長を務めることにもなった。
稲原稔はそつのない男だ。
春休み期間だが、サークル活動も少しずつ始まっている。四月になれば新歓が始まる。どれほど忙しくなるかは昨年の活動である程度分かっているつもりなので、始まる前の今はゆったりと過ごしておきたい。
いつも練習場所にしている教室での新歓会議を終え、外に出ればもう夕焼けだ。冬の寒さはやわらいで、宵口の風もどこか春めいている。春はいつもわくわくするものだ。
薄いコートの襟を立て、家路につこうと足を踏み出したとき、先ほど出てきた建物から元気な青年の声が追いかけてきた。
「いなせんぱーい!」
振り返ると、人懐っこく笑う青年が、手を振りながら駆け寄ってくる。厚手のパーカーのフード部分が、走るのに合わせてぴょこぴょこ跳ねる。稲原は足を止め、優雅な微笑みを浮かべた。
「佐久間くん、お疲れさま」
「お疲れさまです! ご飯行きましょうよ!」
佐久間優は、息を弾ませながら稲原の前で立ち止まった。大きな瞳が期待に満ちた眼差しで稲原を見上げる。遅れて、建物からぞろぞろとサークルの仲間が出てきていた。
「みんなで行こうって話してたところで、あの、百万遍でちょっと飲もうと」
「ああ、いいね……大所帯だな」
「春ですし!」
話は見えないが、佐久間は楽しそうだ。ちょうどそのとき、スマホが振動して、見るとメッセージが届いていた。ちょっとごめんね、と確認していると、稲原の同期の柏木啓介も追いついてきた。
「いな、お疲れさま。彼女か?」
「うん……でも大丈夫」
メッセージは簡潔だ。定例会議。明日、11時、いつものカフェ。OK、とこちらも簡潔に返事をする。
「美人の彼女、ほっといていいのか?」
茶化すように小突いてくる柏木に、稲原は肩をすくめてみせる。
「会うのは明日だから、今は問題ないよ。みんなで飲みに行くの?」
「そうそう、春だし」
がたいのいい柏木が笑うと迫力があるといつも思う。
「いなも行くよな?」
少し遅れて何人かの女性も合流する。佐久間や柏木を含めて十人ほどにはなりそうだ。中には昨年の新歓委員長であった四回生の結城まみもいる。明るい色のスプリングコートの裾で、ロングスカートが夜風に揺れている。
「いなじゃん、まだ残ってたんだ」
「結城さん、お疲れさまです。みんなで飲みに行くなら、僕もご一緒しようかなと」
「いいね、行こう行こう」
結城は嬉しそうに微笑む。夜風に当たって、その頬がほんのり染まっているようだ。結城の横では、稲原の同期の丸岡亜衣が、稲原と結城をこっそり見比べている。丸岡の丸いシルエットのボブが視線の動きに合わせてちょこちょこ揺れているのを、稲原は気付かないふりをする。
結城はおもむろに柏木の背中をばしっと叩いた。
「柏木はまあ、飲んで傷を癒さないとね!」
「やめてください! 思い出させないでください!」
「はは、飲んで忘れればいいじゃない」
「結城さんほんと傷をえぐってくるなー」
このメンバーで気軽に騒いでいられるのも、新歓が始まるまでのもう少しの期間だけだ。新歓はもちろん楽しみだが、今のこの時間もかけがえなく、輝いて思える。
「じゃおれ電話しますね!」
嬉々として店に電話をかける佐久間。稲原はふうっと息を吐いて視線を落とした。時計を見る。まだ早い時間だ。ゆっくり歩き出す集団に交じりながら、星が出始めている空を見上げる。
春休みはゆったりと流れる。
*
からん、と小気味の良い音を立てて、喫茶店の扉が開く。見慣れた店内を見渡すと、中庭に面した隠れ家のような席に、見慣れた美人が座っている。
「おはよ」
「おはよ!」
白鳥美鈴はにっこり笑って、稲原が向かいの席に腰掛け、肘をつき、首を垂れるその一連の自然な動作を見た。うつむいたその口から、くぐもった声が漏れてくる。
「推しが………尊い…………」
「はいはい。アイスコーヒーでいいの?」
「うん………」
白鳥が手を挙げると、店員がぱたぱたと小走りにやってくる。アイスコーヒーふたつ、と復唱した店員、丸岡亜衣は、机に突っ伏してしまった稲原を見てため息をついた。
「稲原くん、今日も通常運転だね」
丸岡はこの喫茶店でバイトをしている。体の前でお盆を抱え、笑いそうになる口元を隠す。稲原は丸岡の方をちらっとだけ見て、再び突っ伏した。
「尊い………」
「おうおう、詳しく聞こうか」
白鳥は厨房の方に行った丸岡の背を見送って、稲原の頭を突っついた。むくっと顔を上げた稲原は、一転、きりっとした表情になっている。
「いや特に何もない」
「ないんかい」
すかさず突っ込みを入れる白鳥。きっぱりとした物言いと完全にマッチする顔立ちの、彼女は確かにとても美人だ。ゆるく巻いた髪が顔の横から胸元にかけて完璧なウェーブを描いている。彫りの深いはっきりとした顔立ちに、主張のある赤色の口紅がとても似合っている。小学校からの幼馴染だからさすがに顔は見慣れているが、いつ見ても凄みのある美人だと思う。
喫茶店の窓辺の方をぼんやり眺めながら、昨日の飲み会のことを思い出して、稲原はうっとりとため息をつく。
稲原稔はそつのない男だ。推しを思ってこんなにうっとりとする顔も、でれでれの声も、決して誰にも知られることなくやってきている。普段はすらりと伸ばした背筋も、今はくにゃりと丸めている。いつも浮かべている優雅な笑みは、今の緩んだ頬には見る影もない。
「昨日もさ、僕サークルの会議の後に普通に帰ろうとしてたらさ、わざわざ走ってきて飲みに誘ってくれたんだ。きらきら見上げてきてほんと可愛かったなあ……飲み会でも僕の隣に座ってくれてさ」
白鳥はうんうんと頷き、で、と続ける。
「進捗はないのかい」
「あるわけないよ。見てるだけでいいんだ、見てるだけで」
かーっ、と首を振る白鳥の仕草は、言っちゃ難だが美人に似つかわしくはない。アイスコーヒーをお盆に載せて持ってきた丸岡が若干引いている。アイスコーヒーを受け取りながら、ありがと、と丸岡に向ける白鳥の笑顔は、しかし今度はとんでもなく美しい。
「ちょっと亜衣、聞いた? 稔ったら見てるだけでいいって、またそういう」
「僕には美鈴みたいな勇気はないよ……」
稲原の「恋人」はやれやれ、と手を広げ、それからうっとりした笑みを丸岡に向けた。ねーっと言われて、丸岡は少し下がって、お盆を抱え、きょろきょろと辺りを見回して、小声で、
「美鈴ちゃん、やめてって……」
慌てて言う。白鳥はぷくっと頬を膨れさせ、それからまたとろけるような笑みを浮かべる。肘をついて組んだ指にあごを乗せて二人を見ていた稲原は、恨めしそうにため息をつく。稲原のこういう色々な表情を、確かに、丸岡は最近になって初めて知った。
「ねえ、今日はちょっと相談があるの」
「なに?」
珍しく真剣な表情になる白鳥。稲原はアイスコーヒーのストローに口をつけながら続きを促す。きりっとした冷たい苦さが口に広がる。
「私たちのこと、みんなに言いたいのよ」