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 いくばくかの時間が過ぎた。

 時計を見ると、間も無く正午である。そろそろ昼食の時間ではあるが、それよりも竹志には気になることがあった。

 どうにも小梅は、集中力を欠いているように見える。時折、画面やコントローラーさばきを盗み見る限り、彼女がそれなりのゲーマーであることは疑いようもない。いくらか腕に覚えのある竹志としては、自分用のコントローラを引っ張り出して、対戦でも申し込んでみようかとさえ思えるほど。それなのに小梅は、しばしば考えられないようなミスを何度も犯している。

「そろそろ、お昼だけど」

 と、竹志は声をかけた。

 小梅はぴくりと身じろぎをしてからコントローラを置き、小さくため息を落とす。そうして、束の間を置いてから、彼女は叔父に目を向けた。その表情は、明白な不快感を表していた。

 邪魔をするな、と言いたいわけではなさそうだ。もしそうなら、目を合わせてくれようはずもない。むしろこれは、助けが必要であることを、訴えているように見える。

「ひょっとして、どこか具合が悪い?」

 いささかの間があった。

 果たせるかな、小梅はこくりと頷いた。竹志は、熱でもあるのかと心配して少女の額に触れるが、特段の異常はない。すると小梅は、竹志の手をそっと脇に避けてから、なにやら苦笑いを浮かべ、言った。

「歯が抜けそうなの」

「歯?」

「うん」

 小梅は、小さく口を開けた。それを覗き込もうとして、竹志はぎょっとする。それと言うのもの小梅は、襟ぐりが広いノースリーブのワンピースを着ていたからだ。まったく困ったことに、ゆるやかな襟元からは、少女の胸の(いただき)がのぞいていた。

「どれ?」

 内心の動揺を悟られないよう、竹志は平静を装って尋ねる。すると小梅は、舌先で下顎の左の犬歯を指した。それは、明らかにぐらついていた。

「歯医者に行く?」

 小梅は口を真一文字に閉じ、首を左右に振った。

「どうせ、今日はお休みだし。それに」と言ってから、少女は付け加える。「歯医者きらい」

 なるほど。母親に告げれば、行くたくもない歯医者へ強制連行されることは目に見えている。そんなわけで、ここ数日、ぐらつく歯を抱えて不快な日々を過ごしてきた、と言うところか。

「自分で抜こうとしたんだけど、痛くって」

 小梅は言って、うつむく。

 竹志はうなずく。今にも抜けそうなのに、引っ張ると痛い。歯の生え変わりとは、そのようなものだ。

「抜いてやろうか?」

 小梅はさっと顔を上げ、目を大きく見開いた。

 しかし、一番驚いているのは、そんなことを口にした竹志自身だ。まったく、何を口走っているのかと猛省する。さすがにこれは、キモいと思われても仕方がない。

 ところが小梅はソファーを立ち上がり、いそいそと竹志の右膝に乗った。そうして顔を少し仰ぎ、ぎゅっと目を閉じる。

 叔父の提案を真に受け、不愉快な乳歯を抜いてもらおうとしているのか。いや、それはまずいと竹志は焦る。たとえ望まれたことだとしても、アラサー男が幼い少女の口内を(まさぐ)るのは、明らかに事案である。

「あの、小梅ちゃん……」

 竹志は、続けて「ごめんね」だとか、「やっぱり、悪いんだけど」と、断りの言葉を継ごうとするのだが、それよりも先に小梅は目を開け、苦笑いを浮かべた。

「口、開け忘れてた」

 なるほど。なぜか目と口は連動するのだ。ちなみに目薬をさす際は、大きく口を開けて「あー」と発声するとよい。薬液が滴下しても、目と口の奇妙な連動のせいで、反射的に目を閉じるのを防ぐことができる。

 小梅は再び目を閉じ、今度は大きく口を開けた。ピンク色の粘膜におおわれた口内が、あからさまになった。そこが人体の中でも、取り分けプライベートな部分であることを、彼女は理解しているのだろうか。

 竹志はいよいよ腹を決めた。小梅の頬に左手を添えてから、右手の人差し指と親指を、彼女の口の中へ挿し入れる。なめらかな粘膜に触れて、ひどい罪悪感に打ちのめされそうになるが、これは治療なのだと自分に言い聞かせ、役目を終えようとしている乳歯の一本をつまむ。

 しかしこれは、思いのほか難航した。小さな犬歯は手掛かりが少ないうえに、唾液で濡れてひどく滑っった。その上、可愛らしい舌先が、こちょこちょと指をくすぐってくる。

「小梅ちゃん」

 竹志が抗議すると、小梅は目を開けて「えへ」と喉で笑った。

 それでも、どうにかこうにかぐらつく歯をつまむことに成功し、いよいよ引き抜きに掛かる。ところが、簡単に抜けるものと思っていたそれは、意外な抵抗を見せた。何やら糸の一本で繋がれているかのような抵抗があり、力を込めると小梅は両の腿で、竹志の腿をぎゅっと締め付けてくる。どうやら、無理に引っ張ると痛いようだ。

「やっぱり、止める?」

 たずねると、小梅は右手を挙げてぱたぱたと振った。大丈夫だから続けろと言いたいらしい。こうなれば、一気に引き抜いてしまった方が、苦痛は少ないのかも知れない。

「わかった。じゃあ、ちょっと我慢して」

 小梅は、ぎゅっと目を閉じた。

 竹志は息を詰め、歯をつまむ指に力を込める。

 果たせるかな、かすかに湿った音がした。

 小梅はびくりと身動ぎし、喉の奥から「あ」とも「お」とも聞こえる、小さなうめき声を漏らす。少女の細い腿が、再び竹志の腿を締め上げる。

「抜けたよ」

 竹志が言うと、小梅は歯の抜けた痕を舌先で弄る。そうして、あのぐらつく歯がなくなったことを確認すると、満面に笑みを浮かべた。

「ありがとう、おじさん!」

 竹志を苛んでいた後ろめたさは、それで帳消しとなった。とは言え、竹志は抜いた乳歯を姪っ子に見せながら言った。

「これは、ひとりでに抜けたことにしてくれるかな。俺が抜いたなんて言うと、姉さんに怒られそうな気がする」

「そうだね」

 小梅は共犯者の顔になってうなずく。しかし、ほどなく彼女はつと目をそらし、こう続ける。

「私も、内緒にしてほしいことがあるの」

 心なしか、少女の頬は赤らんでいた。

「なにを?」

 すると小梅は、少し間を置いてから、ぽつりと言った。

「ちょっと出ちゃった」

 何が? と聞こうとして、竹志は小梅が座っている膝のあたりが、なにやらほんのりと温かいことに気付く。

「歯が抜けた時に、びっくりして。ごめんね」

 小梅は言う。

 竹志は慌てて立ち上がる。膝に座っていた小梅は、滑り落ちるようにして、床にぺたんと尻もちを突く。パンツが見えた。いや、今はそれどころではない。ズボンを見ると、なるほど膝のあたりにシミがあった。

「どうしよう?」

 小梅は聞いてくる。

 竹志は脱衣所のある方を指差し、言った。

「小梅ちゃんはシャワー、俺は汚れ物を洗濯する!」

「りょうかい!」

 小梅は立ち上がり、脱衣所へ向かって走り去った。訓練された子どもの動きだった。きっと母親の命令に従い慣れているのだろう。

 竹志も後へ続こうとする。洗濯機は脱衣所にあるからだ。しかし、思い直して台所へ向かい、グラスを取り出してから、その中に小梅の乳歯をころりと落とした。子どもの成長の証を、無下にゴミ箱へ捨て去るのは、いささかはばかられたのだ。これの始末は、母親に任せるのが妥当であろう。


夜になり、仕事を終えた梅子から連絡が入った。竹志は姪を連れ、件の回転寿司店へと向かう。すでに梅子が予約を終えていて、三人はほとんど待合もなくボックス席に腰を降ろした。

「歯が抜けた?」

 梅子は、レーンを走るアジの握りを捕らえてから、少し驚いた様子で聞き返した。

「うん。お昼にピザ食べてたら、ぽろって」

 小梅は言って、母親に向かって口を開けて見せた。

「あー、ホント。抜けてるわね」

 そう言って、梅子は苦笑いを浮かべてから続ける。

「ピザなんかより、もっといいものをねだればよかったのに」

 もちろん竹志も、姉の意見に異論はない。しかしながら、洗濯物が乾くのを待っていては昼食の時間が遅くなるし、かと言ってノーパンの姪っ子を外食に連れ出すようなまねは、厳に避けたかった。つまり、昼食が宅配ピザとなったのは、不可抗力である。

「あ、おじさん。イクラ取って!」

 小梅は竹志の腕を掴んで言った。

 竹志は「はいはい」と、姪っ子のために流れて来たイクラの皿を捕まえる。

「他は?」

 竹志は聞く。

「エンガワたべたい」

「渋いチョイスだな。注文する?」

 小梅は首を振った。

「いい。おじさんが取ってくれる方が楽しいもの」

「そっか」

 そんな会話を重ねていると、テーブルの向こうから梅子が訝しげな目を向けて来た。

「あんたたち、ずいぶん仲良くない?」

 秘密の共有は、人の結びつきを強めるものである。

「まあ、半日も一緒にいれば」

 竹志はあいまいに答える。

「それより、歯はどうする?」

 あまり突っ込まれても厄介なので、話題を変える。

「あー、抜けたヤツね」

「屋根の上に投げたりしないのか?」

「投げるの?」

 小梅が驚いた様子で聞いた。

「うちでは枕の下に入れておくと、妖精がお金と交換してくれることになってるの。まあ、虫歯が無かったらだけど」

 梅子は笑って説明した。

 確か欧米には、そのような風習があった。

「なるほど。それじゃあ、郵送で返すよ」

 しかし、小梅は首を振る。

「いい。おじさんにあげる」

 あげると言われても、いささか始末に困るのだが。

「今日、遊んでくれたから、お礼。おじさんが代わりにお金もらって」

 小梅は「どうだ」と言わんばかりの顔である。

 そう言うことなら、むげに断るのもはばかられる。梅子に目を向けると、苦笑いを浮かべるばかり。まあ、好きにしろと言うことだろう。

 竹志はありがとうと言って、ようやく自分の寿司を一皿手に取った。


 晩餐を終え、竹志は帰宅する。

 暗い部屋の中には女の子の匂いが残っていて、不意に竹志は寂しさを覚えた。

 照明を点け、台所へ向かう。置きっぱなしのグラスが一つ。その底には、白い欠片がある。グラスを取って、左手の上にそれを傾けた。手の平の上に転がり出た、小さな乳歯。その持ち主は、別れ際に期待を込めた目で「また、遊びに来てもいい?」とたずねていた。竹志は「もちろん」と答えた。いつもなく交わされた約束ではあるが、それは少しばかり、今の寂しさを拭い去ってくれた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] きっと一人で帰った部屋はいつもより広くて、その中で白い歯はきらきら輝いて見えたことでしょう。 小梅ちゃんには、また遊びに来て欲しい!
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