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開けて悔しき玉手箱 

夢幻泡影

作者: 秋山太郎

9000字程度の短編となります。宜しくお願いします。

 沈みゆく夕日を背景に、満開の桜が咲き誇っている。

 はらはらと上品に散る花弁は茜色に縁取られており、舞い落ちる度に、やがて私の心へと幸せを積み重ねていくだろう。

 そんな桜並木の道を歩きながら、私は一人の男の子と目が合った。

 吹き抜ける風はまだ少し冷たくて、撫でられた肌がじんわりと熱を帯びているのを感じる。

 去りゆく男の子の後姿は、やはり茜色に縁取られており、私の焦燥感を否応なしに駆り立てた。

 それでもこの美しい風景に手を加える勇気が持てなくて、私はその後姿をただひたすら眺め続けていた。






「転校生の紹介をするぞ」


 そう言いながら先生が教室の中へ入っていくと、クラス中が一斉に盛り上がった。興奮の波は廊下に佇む私にまで届き、肌をピリピリと刺激する。


「それじゃあ、入ってきて」


 私はドキドキしながら教室の中へと歩み入り、気持ちを落ち着けるように後ろを向いて、そっと扉を閉める。

 そして先生の横まで歩いていくと、ゆっくりと正面を向いて、教室の中を見回した。

 幾重にも重なった視線が私を貫き、様々な想いが伝わってくる。何度経験しても慣れない瞬間だ。

 私は思わず下を向き、目を瞑ってしまった。

 先生が黒板に私の名前を書いているのだろう。チョークが奏でる小気味の良い音は、私の昂ぶった気持ちをいくらか抑えてくれた。


「自己紹介、出来るかな」


 私が顔を上げてそちらへ視線を向けると、先生は手に付いたチョークを払いながら、笑顔で頷いている。私も頷き返して、正面を向いた。

 

「上野さくらです。今月、こちらに引っ越して来ました。まだ分からない事ばかりですが、よろしくお願いします」


 そう言って頭を深く下げた後、つっかえずに自己紹介の出来た自分を褒めながら、私は頭を上げた。


 そして教室中を改めて見回した時に、心臓が大きく跳ね上がった。

 こちらに向いている視線の一つが、私の心を奪っていく。

 彼は私の事を覚えているだろうか。


「……くら、おーい、さくら」

「あ、は、はい」


 上の空だった私の意識は、先生の声で呼び戻された。


「五月の連休が終わったばかりだからな。ぼーっとしてしまうのも分かる。先生も同じ気持ちだ」


 クラス中が暖かい笑いに包まれている。

 私は顔が真っ赤に茹で上がるような気持ちだった。


「それじゃあ席は――ああ、寛太の隣が空いてるな」


 そう言って先生は、窓際の一番後ろを指差した。

 私はゆっくりとそちらへ歩いていく。

 もはや鼓動は抑え切れないほど激しく高鳴っていた。


「鈴木寛太です。よろしくね、上野さん」


 彼は優しい笑顔を向けてくれた。

 あの日見た男の子で間違いない。


「よ、よろしくね」


 私は挨拶と一緒に、口から心臓が零れ落ちてしまうかと思った。






 休み時間や放課後に押し寄せる人の波も、ようやく落ち着き始めた。

 最初はガチガチに緊張していた私も、最近になってようやく自分から話が出来るようになった。


「鈴木君、先生が課題のプリントを提出しろってさっき言ってたよ」

「あぁ、ありがとう。実は僕、理科が苦手で……」

「えっ、本当に?」

「うん。上野さんは勉強得意だもんね、凄いよ」

「そんな事ないよ。私は転校が多いから、いつも必死なんだ」


 彼は私の話を聞きながら、課題のプリントを必死に埋めている。すると、はっと何かに気づいた様な顔をして、こちらへ振り向いた。


「そうだ、今度うちで勉強を教えてよ。ほら、家も近所だって分かったしさ」


 そう言って彼は無邪気に微笑んだ。


「それじゃあ、暇な時に教えてあげる」


 私はちょっと偉そうに、いたずらっぽくそう答えた。


 あの日の事を彼は覚えていてくれた。桜が散る前に、並木道を散歩していたらしい。

 私は両親に連れられて、引越し先の下見をしていただけなので、彼を見かけたのは本当に偶然だった。


 その時の話をしているうちに、お互いの家が近くにあると分かった。 

 きっかけさえあれば、会話はどんどんと弾んでいく。

 彼の言葉は心地よく私の中へと溶け込んでいき、満たされた私の心は益々彼に惹かれていった。






 それから私は、定期的に彼の家へと勉強を教えに来ている。


 彼は庭のある一軒家に、両親と三人で暮らしていた。

 普段は食事をする所だと言っていたが、縁側から吹き込む風が心地良いので、和室のちゃぶ台を使って勉強をしている。


「……というわけで、波っていうのは、何かの振動がまわりに伝わっていく現象の事を言うの」


 梅雨に入りジメジメとした日が続く中、近づくテストの足音に怯えた彼は、苦手な理科を克服すべく頑張っている。


「実際に目に見えないものを理解するのって大変だよね。僕はイメージがうまく出来なくてさ」

「でも水面に伝わる波はイメージしやすいでしょ? それに、音だって空気の振動が伝わっているから聞こえるんだよ」

「それは分かるけどさ……」


 彼の家を初めて訪れた時は、それはもうお互い緊張したものだが、今ではとても自然に会話が成り立つようになった。


「鈴木君はそう言うと思ったから、今日はこれを用意してきたの」


 私はバッグから秘密兵器を取り出して、ちゃぶ台に置いた。


「これは――糸電話?」

「うん。紙コップには、桜の花びらを書いておいたよ。私の手作りなんだから、大事にしてよね」


 そう言って私が笑いかけると、彼は短い髪を触りながら、爽やかな笑顔を返してくれた。


「それじゃあ、さっそく使ってみよう」


 彼はそう言うと、糸で結ばれた紙コップを片方持ったまま、縁側から庭へと出て行った。

 風鈴の音が涼しげに響く中で、私は何だか急にドキドキしてきた。

 この紙コップを耳に当てると、彼の声が届くのだ。


「いくよっ」


 彼の声に頷き返した私は、ちゃぶ台の木目を目でなぞりつつ、左手で胸を押さえながら、そっと紙コップを右耳へと添えた。


 ――もしもし、聞こえますか。


 その瞬間、私の心臓は確かに一瞬で鷲掴みされた。胸を押さえている左手に、ぎゅっと力が入る。

 普段とは違って、耳元で囁かれるような感触は、こそばゆくて面映ゆい。


 ――聞こえたら、返事をして下さい。


 体中の血液が顔の周りに集まって、ブクブクと沸騰しているみたいだ。

 彼の方をちらりと見ると、既に耳へと紙コップを添えている。

 私は高鳴る気持ちを何とか抑えながら、少し震える息を整えて、紙コップを口に当てると、彼に言葉を投げかけた。


 ――とても良く聞こえます。


 彼は下を向いて庭を見つめたまま、全く動かない。

 なので私は、もう少し言葉を続けた。


 ――何か、ちょっとドキドキするね。


 溢れた想いが口から零れ落ち、糸を伝って彼に届いたはずだ。

 彼もまた、私と同じ様な気持ちになってくれただろうか。

 この気持ちは、しっかりと届いているだろうか。


 彼の反応が無いので私は少し不安になって、誤魔化す様にして語りかけた。


 ――少し休憩して、散歩に出かけませんか。


 何とかそれだけ言い終えると、私は紙コップを耳に当て直した。

 ふぅ、と大きく息を吐き出し、左手をあおぐ様に動かしながら、火照った顔に風を送る。

 彼はその場にしゃがみ続けていたが、やがてはっと気づいた様に、口へ紙コップを当てた。


 ――そ、そうしましょう。


 こちらへ戻って来る彼の表情を見た時に、私はしっかりと気持ちが伝わっている事を確信した。


 二人でちゃぶ台を見つめながら、畳に正座をしている。

 湿った生温い風が、乾いた風鈴の音を運んでいた。






「この神社のお守りを買いたいなって、お、思ったんだけど――」


 少し休憩しようという事で、気分転換に外へ出かける事にした私達は、まず行き先に困った。

 その時、私が咄嗟にこの神社の名前を口に出してしまったのだ。


「あ、あの、別に深い意味とかそういうのは――その……」


 私は自分の口から出た言葉の意味を改めて理解してしまい、最後の方は、下を向きながらボソボソと口篭ってしまった。


「う、うん。この神社は結構有名だもんね。僕も聞いたことがあるよ」


 慌てて私をフォローしてくれた彼もまた、どこかソワソワとして落ち着かない感じだ。


「じゃあ、あの、あれを、買おう――」


 精一杯の勇気を振り絞って、私は彼の左手を引いた。

 いよいよ私の心臓は、破裂しそうなほど鼓動を強く打ち続けている。

 私達はしばらく無言のまま、紡ぐべき言葉を探しながら、二人で境内を歩いていた。

 尋常ではない量の手汗が噴き出しており、それが羞恥心に火をつける。

 彼に嫌われないだろうか。このままでは失礼ではないだろうか。

 そういった考えがぐるぐると脳内を駆け回っている。

 つないだ手の中は熱波の震源地となっており、きっとそのせいで、私の脳がオーバーヒートしているに違いない。


 結局お金を払う時までずっと、二人の手は結ばれたままだった。






「良かった、買えたね」


 彼は嬉しそうにそう言った。それを聞いた私も、飛び上がりたいほど嬉しかった。

 丸い絵馬は二種類あり、それぞれ『えんむすび』そして『成就』と書かれている。


「こっちに自分の願いを書いて、あそこに結ぶみたい。願いが成就したら、こっちに感謝の言葉を書いて、また結ぶんだって」


 どちらにも招き猫が二匹描かれていて、裏に言葉が書き込める様になっている。


「そ、それじゃあ、お互い書いたら結ぼう。絶対見ちゃだめだよ!」


 私は彼にそう言うと、近くにあったテーブルに座って、今の気持ちを正直に書き込んだ。


 ――ずっと寛太君と一緒にいられますように。


 私にしては、ずいぶんと思い切った事を書いてしまった。

 でも、手は繋げたし、彼も嫌がっていない様に見えたし、勇気を出して本当に良かった。


 ちらりと彼の様子を伺うと、どうやら向こうも書き終わったようだ。


「それじゃあ、私はあっちに結ぶから……」

「ぼ、僕は反対の方に結ぶね」


 はっきりと願いを言葉にして書き込んだ私は、改めて自分の気持ちを確認する事が出来た。

 だけど、もしかしたら彼は、まだフワフワとした気持ちでいるのかもしれない。

 私は結んだ絵馬を、少し揺らしてみる。すると、カランカラン、と乾いた音が響いた。

 きっと、この音が神様まで伝わるのだ。


 ――神様、よろしくお願いします。






 神社を出る時に、彼は私の右手を引いてくれた。

 驚いた私はとっさに彼の方を振り向くと、夕焼けのせいか、彼の耳は赤く染まっている様だった。

 そして彼は、ただ黙って前を向き歩いていた。

 それを見た私の耳も、同じ様に染まっていたと思う。

 そして私も、ただ黙って彼の横を歩いていた。


 右手から伝わる彼の熱は、私の気持ちを激しく焚き上げている。

 神様がさっそく助けてくれたのかもしれない。

 茜色に染まる空間が、視界に眩しい。

 私は彼の家までドキドキしながら、手を繋いで歩き続けた。






「今日、うちで晩御飯を食べていかない?」


 勉強が終わって帰ろうとする私に、彼はそう言ってきた。


「お母さんに聞いてみないと――」

「実は、もう許可は取ってあるんだ。うちのお母さんに頼んでもらったんだよ!」


 彼は満面の笑みでそう言った。

 私も釣られて笑顔になっていくのが分かる。


「食べ終わったら花火もやろう」

「えっ本当? すごい楽しみ!」


 私は何度も心の中で神様に感謝をしていた。




 


 夕食は、しめじの乗ったハンバーグだった。ブロッコリーとじゃがいもを添えて、上には大根おろしがかかっている。


「さくらちゃんも遠慮せずに食べてね」

「ありがとうございます」


 彼のお母さんは、すごい優しそうな顔をしている。もしかすると、彼の柔らかい雰囲気は、お母さんに似たのかもしれない。


「寛太がこんな素敵なお嬢さんを連れてくるとはね、驚いたよ」


 彼のお父さんは、ビールを飲みながら笑顔でそう言った。

 私は何だかちょっと恥ずかしくなって、下を向いてモグモグと口を動かし続けた。

 きっと彼も将来は、こういう渋くてかっこいいお父さんになるに違いない。


「もう、あんまり変な事を言わないでよ」


 彼はちょっとムキになって反抗している。あまり見た事のない、意外な一面を見ることが出来て、私はちょっと嬉しかった。


 デザートにはスイカを出して頂いた。種を一生懸命ほじる彼は、なんだか少し可愛いかった。






「それじゃあ、花火をしようか」


 彼は大きな袋を持って来た。


「結構たくさんあるんだね」

「昔お父さんが買ってきてくれたやつが残っていたんだ」


 そう言うと彼は、庭の奥にバケツを置きに行って、花火を準備し始めた。

 私は彼を追いかけながら、花火に火をつける様子を眺めている。

 何となく初めて出会った時の彼の後姿を思い出して、今の状況が少し信じられない様な気持ちになった。


 すると、シュゥゥゥと音を立てて、彼の背丈を超えるほどの火柱が上がった。

 こちらを振り返った彼の笑顔は、火花に負けないくらいキラキラと輝いている。

 夜の帳に包まれる中、白い煙がモウモウと立ち込める庭の一角は、この世界から隔絶された様な気配さえあった。


 そのまま彼は、次々と準備した花火に火を付けていく。

 ねずみ花火は私の足元にまで走ってきて、乾いた音と共に、勢い良く弾けた。


「あはは、活きが良いね」

「笑い事じゃないよ!」


 私は何だかおかしくなって、釣られて一緒に笑った。


 視界を埋め尽くし始めた白煙の中で、火花が煌く様はとても鮮やかで、花火の音が、彼の声が、風鈴の音が、虫の鳴き声が――私の鼓膜を震わせて、体の中に押し寄せてくる。


 私が手に持った花火に火を付けると、彼も同じ様に火を付けて、一緒になって庭の中を走り回った。

 暗闇に映える火花が彼の楽しそうな表情を照らし出し、私達はいよいよ白煙に包み込まれている。


 幻想的な風景は、火薬の匂いがした。


「ほら、さくらもこっちに来てよ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ」


 彼は、私を名前で呼んだ事に気付いているのだろうか。


 時折吹く風はどこか生暖かくて、私と彼を共振させている様に感じる。

 きっとこれは、神様からの贈り物に違いない。

 夢のような世界で私は、彼の笑顔を追いかけ続けていた。






「最後はこれをやろうか」


 そう言って彼が取り出したのは、線香花火だった。


「あぁ、情緒があって良いよね」


 私がそう言うと、彼は得意な顔をして言った。


「侘び寂びってやつだよ」


 それを聞いた彼の両親は、何を言っているんだ、と言って縁側で優しそうに笑っている。

 少しふくれっ面になった彼は、私を連れて縁側から離れ、庭の奥へと向かうと、バケツの近くにしゃがみ込んだ。


「ほら、火を付けるよ」


 彼はバケツの上で、二人の線香花火に火を付ける。

 チリチリと音を立てながら、黄金色の花弁が静かに散っていく。

 二人とも無言でそれを眺めている。

 そんな瞬間が、最高に心地良かった。


 やがて私の線香花火は、先端に光の球を作り始めると、バケツの中へと引っ張られていった。

 悲鳴を上げながら吸い込まれた光は、小さな波紋を一つ残して、うたかたのごとく消えて行く。

 それを見た私の心には、幾ばくかの侘しさが残った。


「鈴木君のは長持ちしてるね」

「寛太で良いよ」


 彼は自分の線香花火を見つめながら、そう言った。

 それを聞いた私はちょっと驚いて、良く分からない喜びの様な気持ちで胸が満たされていった。


「寛太君、今日は本当にありがとう」


 私が心からの感謝を伝えると、彼はピクッと反応し、右手の線香花火からは、光の球が落ちていく。


「あっ……」


 私は思わず、小さく声を上げてしまった。

 ジュッと熱を奪う音がすると、後を追うようにして波紋が広がっていく。

 やがて水面は静かに二人の顔を映し出し、私の心には寂しさが押し寄せる様にして募っていった。


「あっ……はは」


 バケツの中の彼は、小さく笑った。


「あの、さっきは興奮しちゃって、上野さんの事を――」

「私も名前で呼んで欲しいな」


 水面に映る彼の顔を見つめながら、私はそう言った。

 少しずるかったかもしれない。答えを直接聞くのが怖くて、でもやっぱり聞きたくて、彼の目を正面から見据える事が出来なかったのだ。


「う、うん。さくら……こちらこそ、今日はどうもありがとう」


 私は何だか少し気恥ずかしくて、紡ぐべき言葉を探しながら、くるみ割り人形の様に口を開閉させている。


「――うん」


 なんとかそれだけ搾り出すと、私達は少し無言になった。


「何だかちょっと、ドキドキするね」


 彼はそう言いながら照れ笑いを浮かべて、おでこに浮かんだ汗を手のひらで拭っている。

 そして大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。

 水面が僅かに揺れて、小さな波が走る。


「もし、さくら……が良ければだけど、来月の花火大会、一緒に見に行かない?」


 彼の言葉が、今度は私の心に波紋を広げていく。

 顔を上げた私は彼の目を見つめながら、あらん限りの喜びを込めて返事をした。


「嬉しい! 絶対一緒に行こうね!」

 

 寛太君と花火大会に行けるなんて夢みたいだ。

 私の気持ちは、ついに最高潮へ達した。


「あぁ、約束だよ――良かった、すごい勇気を出したんだ」


 彼はほっとした様な顔をしている。

 二人の距離が、今夜、完全に無くなったと私は思った。






 終業式が終わり、夏休みが始まった。


「さくら……ちょっと良いか」


 お父さんが呼んでいる。


「うん、すぐに行くから待ってて」


 リビングに行くと、お母さんとお父さんが辛そうな表情をしていた。


「ど、どうしたの?」


 私はたまらずにそう切り出した。


「実はね――」


 お母さんがそう言いかけると、お父さんがかぶせるようにして、机に頭をこすり付けた。


「本当にすまないっ! 父さんの仕事の都合で、来週までには引っ越さないといけなくなった」


 お父さんの言葉は、私の体の中にゆっくりと染み込んでいく。

 何度もその言葉を反芻し、ようやく意味を理解出来たとき、私の世界からは色が抜け落ちていった。


 私は目の前が真っ暗になった。






 お母さんとお父さんは、いつだって私の味方だった。

 何よりも私を一番大事にしてくれた。

 何度転校を繰り返しても決して私の心が折れなかったのは、両親からの愛情をしっかりと受けているという実感があったからだ。


「顔を上げてよ、お父さん」


 私は震える声でそう言うと、二人を安心させるために、精一杯の笑顔を浮かべようと思った。


「私なら大丈夫だから! 今まで何度もあったし、あったけど、あった……あれ?」


 涙が頬を伝っているのが分かった。

 気持ちは大きく波打っている。

 現実を受け止め切れなくて、私はどうしても涙が止められなかった。


「さくら、あぁ……ごめんなさい、いつも辛い想いをさせてしまって――」


 私の顔を見たお母さんも、釣られるように泣き始めてしまった。


「俺が全部悪いんだ……。お前の大事な青春時代を何度も犠牲にしてしまった」


 お父さんも涙を流しながら、顔をくしゃくしゃにしている。


「うん、うん、大丈夫……ちゃんとお別れしてくる。みんなとお別れしてくるから、心配しないで――」


 私はそれだけ言い切ると、自分の部屋に篭って、体中の水分が枯れ果てるまで涙を流し続けた。


 一週間後、それは花火大会当日で、出発の時間を考えると、恐らく寛太君との約束は果たせないだろう。

 その事実が、私の心臓を握りつぶしていた。






 私は結局、一週間ずっと泣き続けていた。

 初めて一目ぼれをした。

 初めて人を大好きになった。

 そして、初めて大好きな人と別れる日がやって来た。


「さくら、本当に良いの?」


 お母さんが、不安そうな顔でこちらを見てくる。


「うん……ちゃんと考えたから。これで良いの」


 両親は、私のために出来るだけ時間を作ってくれた。

 それでも私は、ついに誰にもお別れを言う事が出来なかった。

 





 頬杖を付きながら、外の景色を眺めている。

 寛太君の家のそばは、随分前に通り過ぎた。

 交通規制のせいで、トロトロとしか進まない渋滞に巻き込まれている。

 打ち上げ花火は、ビルに隠れて見る事が出来ない。

 風に乗って追いかけて来る音の波だけが、後ろ髪を強く引いている。


 もう零れ落ちる涙も枯れ果てたというのに。


 私は弱々しく脈動する胸に両手を添えながら、今日までの感謝を精一杯込めて、ありがとう、と心の中で呟いた。


 時折揺られる車内で両目を瞑り、体中に響く音を聞きながら、私はゆっくりと意識を落としていった。







 暗くなった部屋の中で、明かりもつけずに、ただ椅子に座っている。

 背もたれに体を預けると、そっと目を閉じて、思いに耽った。






 中学校へと上がる前の春休み、僕は一目ぼれをした。

 焼けるような夕日を受けて、はらはらと桜の舞い散る中で、その女の子はため息の出る様な美しさだった。

 だから僕は、翌月その女の子がクラスに転入してきた時には、とても驚かされた。


 彼女と一緒に過ごせた時間は、今でも僕の中で、ずっと色褪せずに残っている。

 一緒に花火をした夜は、まるで夢のような時間だった。

 暗闇に映える色鮮やかな火花は、彼女の優しい笑顔を照らし出し、白煙に包み込まれた二人きりの空間は、全ての波が共振し、幻想的な美しさで満たされていた。


 あの時の僕達は、間違いなく重なり合っていた。






 約束の時間になっても、彼女は現れなかった。

 花火が打ち上がる度に、僕の心が掻き乱されていったのを良く覚えている。

 慌てる僕を見た両親は、とても驚いていた。


「上野さんは、急に引っ越す事になったって言っていたよ。寛太には、さくらちゃんが直接伝えるから黙っていてくれないかって――もしかして、何も聞いていないの?」


 お父さんの言葉を聞いた僕は、全身の力が一気に抜けていくのを感じて、フラフラと自分の部屋に戻っていった。

 その後の事は、あまり覚えていない。

 僕の世界は、その日からひどく色褪せたものになった。






 夏休みが終わっても、彼女の姿は当然見当たらなかった。

 スマートフォンなど存在しなかった当時は、家の電話や手紙でやり取りをするしかなかった。

 僕の傷ついた心では、受話器の重みになど到底耐えられなかった。

 紙コップに書かれた桜の花びらを撫でながら、この糸電話が彼女の元にまで繋がっていれば良かったのに、と何度も思った。

 

 手紙をやり取りする中で、彼女は何度も謝ってきた。僕は、自分の想いを何度も綴った。

 やがてそのやり取りも日を置く様になり、一月、二月、数ヶ月、そして一年経っても返事が来なくなった。


 僕の初恋はうたかたの様に儚く消えた。






 高校生になった僕は、告白された相手と付き合ってみる事にした。

 同じ場所で、同じ時間を、一緒に過ごしているはずなのに、どこかちぐはぐな感じのままだった。

 そして、私達って何だか合わないみたい、と言われてすぐに振られた。


 心地良く鼓動が共振する相手は、そうそう見つかる事がなかった。


 大学生の時に付き合った女性とは、部屋の掃除をしている時に大喧嘩になった。

 古びた絵馬を捨てようとした彼女に対して、僕が声を荒げたからだ。

 過去を引きずったままのあなたは憐れだ、と言われた。同時に、私ではあなたを満たしてあげられないとも言われ、それきり連絡を取り合う事は無くなった。


 そして先日、ついに交際相手の女性から、あなたの顔が見えてこないと言われて、僕は自分の存在を否定された。


 思い返せば、僕という人間は中々ひどいものじゃないか。

 自分の事は棚に上げて、相手に初恋の幻影を重ね続けていたのかもしれない。

 最近ではもう、自分がどこへ向かっているのかすら、全く分からなくなっている。


 部屋の中に、重たく響く音が流れ込んで来た。

 今年もこの季節が巡って来たようだ。


 電気スタンドのスイッチを入れた僕は、少し目を細めた。

 羽虫がはらはらと光の方へ吸い寄せられていく。

 

「ははっ……」


 まるで僕みたいだ、と思って自嘲気味に笑った。

 光を受けてたゆたう羽虫を見ながら、どこか懐かしい光景が脳裏をよぎるが、僕はすぐさま頭を振ってそれかき消す。

 そして重い腰をあげると、机の上にある古びた紙コップと絵馬を、棚の奥へと丁寧にしまった。






 外は人で溢れ返っていた。

 花火の音が響く度に、人の波がうごめき、歓声をあげながら興奮が伝播している。

 その中にあって一人孤独な僕は、世界から取り残された異物の様だ。

 打ち寄せる波が岩を浸食していく様に、人々の喧騒が僕の心を少しずつ削り取っていく。


 この並木道から見える風景も、最近はすっかりと様変わりした。

 時の移ろいを感じながら、人の群れに飲まれていると、どことなく聞き覚えのある声が耳に飛び込んで来た。


「昔ね、このあたりに少し住んでいたのよ」

「へぇ、そうなんだ」

「でも、実際に見に来るのは初めてなの」


 重たいまぶたが一気に持ち上がり、視界が大きく開けた。

 僕は必死になって声の出所を探す。

 すると見覚えのあるような、ないような顔をした女性が、男性と仲良く手を繋いでいる姿が目に入った。


 ――それもそうか。


 あれからもう十年以上が過ぎている。


 出会ってすぐに、恋をした。

 惹かれ合って、重なった。

 その瞬間から僕達は、きっと別々の方向へ進もうとしていただけなのだ。

 そしてもう二度と交わる事はないのだろう。


 僕は憑き物が落ちた様に、気持ちが晴れ渡っていくのを感じた。

 心臓が時を刻む様に、力強く脈動を始める。


 夜空に打ち上がった花火は、いつもより少し色鮮やかに見えた気がした。




最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。


楽しんでいただけたら幸いです。

良ければ感想や批評なんかも宜しくお願いします。

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[一言] 夜見ベルノ様の作品紹介からまいりました。 なんとも酸っぱい初恋を引きずった末のバッドエンドでもあり、ようやくの解放でもあり、読了後どんな顔したらええねん((((;´・ω・`)))と言うのが正…
[一言] 今日ベルノさんの朗読紹介を聴いて、読ませていただきました! 自分のタイプにどハマりしました。典型的なハッピーエンドじゃない感じ、余韻が残る感じ、切ない感じがツボです。
[良い点] こんばんは。 女性の方が割と終わった恋を引きずらないというので、さくらちゃんの気持ちはわかります。さくらちゃんは寛太君との恋愛を思い出に昇華したんですね。寛太君もこれで前に進めそうでよかっ…
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