ポリシー(笑)の動因
「小学校の頃。三年生くらいだったかな。その日はたまたま下校の時にいつもと違う道を通ってみようと思い立った。んだと思う。車道端の消えかかった白線をたどったり、黄色い消火栓の上から、一軒家の敷地を囲む塀の上に登って塀伝いに歩いたりしていたんだよね。そのまま塀を伝って歩いて、たまたま塀にかかるように生えていた白い花を付けたナナカマドの木の枝をくぐろうとした時に、枝に止まっていた小鳥が俺に気付いて飛び立った、それにびっくりして俺も塀から落ちたんだ」
「え、大丈夫だったんですか」
「幸い落ちた所は雑草だらけで、クッションになって怪我はなかった。けれど、落ちたのはどうやらどこかの家の庭で。その庭には小さなイスとテーブルと、ブランコが置いてあった。そのブランコに小さな女の子が座っていた。その女の子はびっくりしてた。俺のことを真ん丸の目で見ながら、誰? って聞いてきた。俺も不法侵入しちゃったことにちょっと焦ったけど、春枝っていいます、なんて律儀に答えた記憶がある。それに対してその女の子は、ふうん、と吐き捨てて俯いてブランコを揺らし始めて。そこで俺は気付いたんだけど、その子すごくボロボロの服装だった。裸足だったし、シャツもスカートも汚れていたし破れていたし。それにものすごく疲れているようにも見えたんだ。幼いながら、少し気になって訊いてみた。何かあったのか、って」
話していくうちに自分の中でもどんどん鮮明に思い出してきた。
「だけど彼女は無言だった。悲しい顔をしているのはガキの俺でもわかったけど。そこでなんとなく、その子を笑顔にできないかなと、手品道具をランドセルから出して披露して見せた。なんで手品道具なんて持っているか、ってツッコミは無しな。たしかその時マジックショーがやたらテレビでやっていて、誕生日プレゼントに親にねだったものを、いつでも披露できるように持ち歩いてただけなんだ。ぎこちないながら、新鮮だったのか気に入ったのかわからないけど、彼女は最初と同じくらい目が真ん丸になっていて、後半は拍手までしてくれた。俺も嬉しかった。なんだろう、言葉では言えないけど、子ども同士ながら少し心が通った気がして。俺は、お前どこの小学校? なんて聞いた。その言葉にふたたび女の子の顔は曇った。そのままぽそりと、学校は行ってないの、って答えた。なんで、と言う俺の問いかけには再び無言が帰ってきた。悲しそうな顔をする彼女を見て、俺も少し悲しくなって。それから少しの沈黙の後、そろそろお父さんが帰ってくるかもしれないから、帰った方がいいよって女の子が言った。その顔は多分、少し怯えていたと思う。家族関係に何かがあるのかなとも思ったけど、小学生の俺がどうこうできる問題ではなさそうってのもなんとなくわかった。このまま悲しそうな女の子を放置して帰るのが心苦しくなって、俺はたまらず、また同じくらいの時間に必ずあそびにくるよって言った。その子はほんと? って言いながら少し笑ってくれて。次の日の下校の時も同じ道を通って同じ家の庭を覗いたら、同じくブランコで揺れている女の子がいて。こっちに気付いて笑顔を見せてくれて。また同じように手品を見せた。あとはブランコを押してもあげたり、馬跳びなんかしたり。一通り遊んだ後に俺は素直な願望を込めて、学校に来ればいいのにって言っちゃったんだ。恐らく彼女が学校に行きたくないわけではのはなんとなく分かっていたのに。ちょっと無神経に、自然と言ってしまった。多分俺もその子と遊ぶのが楽しくて学校でも一緒に遊べたら、なんて思っちゃったから口に出たんだと思う。そしたら彼女は、私も行ってみたいって。俺は、きなよ! いこうよ! と即座に返した。彼女の笑顔がすっと消えて、でもお父さんが……って小さな声で。また怯えた顔になってた。小学生ながら何か力になれないかななんて思った。それで、お父さんと何かあったの? って聞いた。また静寂が帰ってきて、ついに彼女は俯いちゃって。無神経な俺は食い下がって、お父さんに何か言われてるの? 学校行けない理由はなに? 教えてよ、って言った。その子は困った顔に変わったけど沈黙のままだった。俺はしつこく、学校にいけないのはお父さんのせいなのかって聞いた。本当、当時の俺しつこかった。その子は多分俺のしつこさに根負けしてなのか口を開いたんだけど、話すの怖いとしか言わなかった。またひどく怯えた顔で。俺は、大丈夫、誰にも言わないから、みたいな詐欺っぽい常套句を吐いた気はするんだけど何言ったかまではあんまり覚えてない。そこで彼女はパッとこちらを見て、次に来てくれた時に話す。それまでに勇気溜めとく、って力なく言った。もったいぶられて当時の俺はちょっと釈然としなかったけど、デリケートな問題ってのも何となく理解してたから、首を縦に振ってその日は帰った。んで、ここからが本題――――」
話を黙って聞いていたAさんの顔を見た俺は目を疑った。
小さな顔の、その目尻から頬の下までまっすぐに涙が伝っていた。
……ここまでの昔話のどこに涙ぐましい要素があったんだ?
それよりも女性を泣かせてしまったことに狼狽えを隠せなかった。
「え、え、あの、Aさん、だい、どうしたの?」
ゆっくりと目を閉じるAさん。大粒の涙がそれと同時に目から顎へと降りて行った。
そして笑顔になり、「続けて下さい」と震えた声で言った。
こんな時に、スマートな男ならハンケチーフをサッと差し出すのだろうけど、生憎ハンカチは持ち歩いてない。
大丈夫? ともう一声かけたが、同じ笑顔で首を縦に振っただけだった。
奥のレーンからピンの倒れる音が響く中、とにかく話を続けることにした。
「ええ……と。その女の子のことが気になっていたのは事実なんだけど……。次の登校日が夏休み前の終業式の日で、早めに学校が終わった。昼前だったかな。俺は同じように同じ道をたどって女の子の家まで来た。塀の隙間から中を覗いたけど、誰もいなかった。ブランコも止まったままで。家のチャイムまで鳴らす勇気はなかった俺は、一旦帰ってから夕方もう一度来てみたけどやっぱり誰もいなかった。家族でお出掛けしてるのかな、なんて自分の中で理由付けして自宅に帰った。それから……夏休みが始まってすぐに、妹がその当時人気だった大乱闘クラッシュシスターズってゲームを買ってもらっていて。子供の俺は妹と一緒に熱中しちゃって、数日家を出なかった。もちろん最初はその女の子のことは気になってはいたけれども。心のどこか、あの家に行けば会えると安心しているところがあって、飽きるまでひたすらゲームをしてた。具体的には夏休みの七、八割が終わるくらいまで。これは完全に俺が悪いんだけど……。うん、夏休みの宿題を全くやっていなくて。自由研究やら絵日記やら、残りの夏休みはでは足りないくらいの量でその女の子に会いに行く余裕もなかった。というわけで夏休み丸々、彼女の家には行けず、始業式が来た」
「……その始業式は何月何日ですか?」
真顔に戻っていたAさんが俺の目をまっすぐ見ながら訊いてきた。
涙の跡に、心がざわつきながら俺は記憶をたどったが、
「ごめん、そこまでは思い出せない。多分八月下旬だとは思うけど」
「そうですか。そうですよね、八年くらい前のことですもんね」
「えーと、その位かな」
先の狼狽で正確に計算する余裕がない中、この子も本当に同い年なんだろうか等と考えていた。
そうでなくても、間違いなく俺の年齢は知っているってことだな。
「続けていい?」
「お願いします」
「始業式の放課後、これまた昼前なんだけど。ここで俺は漸く、気になっていた女の子の不登校の理由を訊こうと、あの時と同じ道で下校した。同じ車道端の消えかかった白線をたどって、黄色い消火栓の上からその子の家の敷地を囲む塀の上に登って塀伝いに歩いて。塀の上から庭を覗いたら、ブランコがなくなっていた。椅子やテーブルもなかった。もちろん女の子もいなかった。虚無感というか、今まで感じたことのない空白感、空虚感が押し寄せてきて。塀の上でしばらく固まっちゃって。困惑する中、実を付けたナナカマドの枝に隠れて、塀の上に小さな紙が貼ってあった。テープで貼りつけてあった。夏休み前に俺が鳥にびっくりして落ちたちょうどその辺りにね。その紙には可愛い字でこう書かれていた」
そう言って、俺は財布の中の奥底に仕舞い込んでいた紙きれを取り出す。
***
はるえだくんへ
わたしはお父さんといっしょにおひっこしします。
あそんでくれてありがとう。
はるえだくんはわたしのはじめての友だちです。
さいごにおわかれのあいさつをしたかったです。
さようなら。
ほしの
***
「その手紙を読んで、全身に後悔の雨が吹き荒れて。なんですぐに会いにいかなかったのか。なんで夏休み中一回もそこへいかなかったのか。たぶんそのほしのって子ははずっと待っていた筈なんだ。勇気を溜めて、なぜ学校にいけないのか、お父さんがどういう事情でその子を学校に行かせないのか、それを俺に伝えようと毎日待ってたと思う。それなのに約一か月、俺は気になりながらも行かなかった。その結果、二度と会うことが出来なくなった。もちろん理由も一生分からないままだ。不登校の理由を聞いたとして、小さかった俺に何かできたかは分からないけれども、ここまで自責の念は抱かなかったはずだし、それこそもしかしたら少しでも何かの力になれたかもしれない。それなのに、自分の油断と甘さで、知ろうとしなかったことで、死ぬほど後悔した。しばらく寝付けなくなるくらいに」
俺氏、基本豆腐メンタルなのよね。
「あの時、夏休み入ってすぐに会いに行っていたら、その子は勇気を出して話してくれたかもしれない。怖い、って言うだけあるから、軽い事情じゃないだろうし。それをたかだか自分の遊びたい欲求で先延ばしにした結果がこのどうしようもない後悔を生んだ。……ってことがあったのさ」
「なるほど……です」
涙は止まっていたが、依然声は小さく震えていた。
Aさん、いったいどこに感情移入したんだろう。
「それから。俺はどんな些細な事でも、分からない事があったらすぐに知る努力をすることに決めた。まあ、最近は怠惰にも専ら物知りなクラスメートに訊いて終わらせることが多いけど」
「春枝君友達いるんじゃないですか」
「いや、そいつは友達とは多分違うね。俺が勝手に一方的に親しく思っているだけで、向こうは多分ただの隣の席のクラスメート、ちょっと質問が多くてうざいとまで思っているかもしれないな」
首をかしげながら自分へ嘲笑を浮かべる。
「ふうん……」
すっかり頬の乾いたAさんは俺らのレーン奥に立つピンを見つめて遠い目をした。
その目に、俺は胸騒ぎがした。
何故だろう。自分の話をし過ぎたからかな。
あまり知られて嬉しい身の上話ではないので、慌て口止めをすることにした。
「とにかく、さっきの昔の話、他言無用で頼むな。マジで誰にも言ったことないから」
焦る俺に対しAさんは今日一番のやわらかい笑顔で頷きながら、
「分かりました。ありがとうございました。」
「いや、俺こそつまらない話聞いてくれてありがとう」
「つまらなくなんかないですよ」
Aさんは目を閉じて深呼吸を一つ、そして上目づかいに、
「春枝君は、ちょっとアレですけど、やっぱりいい人でした。会ってみて良かった」
「え、いや、とんでもない……」
そんなあざとく見つめながら恥ずかしげもなく言われると誰でも照れるだろうが。
口調変なっちまったし。
ん。
ちょっとアレってなんだよ!