ムツゴロウ
軽く走っただけで汗が出てくるくらいには気温は夏に近づいている。
図書室の前を通る時、背後から「春枝君」と声が聞こえた。
つい先日、聞いた声だ。
振りかえるとそこには小さな女性と、隣にいかにもチャラチャラした高身長の男が立っていた。
「やあやあ、春枝君。えへへへ!」
チュッパチャッ●スを咥えた、ポニーテールの眼鏡巨乳がそこにいた。
「英梨さん……と、びゃくや……だっけ」
「お!ムッちゃん俺の事覚えててくれたんだー。まあ俺っちエースだかんねー」
相変わらず調子に乗っている白夜を軽く無視し、田丸女子に顔を向け、
「英梨さん、何かご用でしょうか」
「そうそう、そうなのよ! えへへへ!」
「何ですか」
「春枝君、これからUに会いに行くんでしょう?」
まあ、昨日の今日でこの辺に姿があれば、そう推測立てるのも容易ですな。
「はあ、まあ」
「1つ、忠告というか警告というか、をしに来たんだよ」
「そうなんだよ、ムツゴロウ君。優しい優しい英梨先輩が君の為を想っ――」
「アホ蓮、少し黙ってて!」
そう怒鳴る田丸女子の顔からは、笑顔は消えていた。
シュンとする白夜を横目に、その難しめの顔をそのままこちらに向け田丸女子は口を開く。
「岸絵さんと話すなら、気を付けてほしいことがあるの」
「……何でしょうか」
「まず。絶対に怒らせないで。怒らせると何が起こるか分からないから」
怒らせるも何も、沸点の高さも種類も分からぬ相手にその忠告は難義だな。
「そして可能な限り近づかないで。何が起こるか分からないから」
おいおい。
俺はそんなパルプンテ女子に突撃しようとしてたのか。
怖くなってきた。
「よくわかりませんが分かりました。ご忠告ありがとうございます」
再びニコリと笑顔が戻り、田丸女子はころりと口の中で飴を転がし、棒がぐるりと弧を描いた。
「あ、そうでした英梨さん。昨日の報酬、持ってきました」
俺はそう言いながらカバンからビニール袋を取り出した。
五十個もそれが入っている袋は、振り回せば武器になりそうだ。
「おお! 早いね! 春枝君さっすがだねえ。えへへへ!」
そのまま田丸女子に渡し、カバンを閉めた。
「ところでさ、春枝君」
咥えていた飴を一旦取り出した田丸女子が背伸びをしながら俺に耳打ちをする。
「蓮はなんで春枝君のことムツゴロウって呼んだの?」
「えっ! えーと、それは……」
何と説明したらいいのか。
プールをこっそり覗くムッツリスケベだから……と素直に説明できるはずもなく、とぼけるか誤魔化すか必死に考えていると、先程までしょげていた白夜が「何? 何? 何の話ィ?」と近づいてきた。
田丸女子は「蓮は少しあっち行ってて」と言いながら大量の飴が入ったビニール袋を遠心力で白夜の肩にぶつけた。早速武器として使ってるし。
再びションボリしながらゆっくり離れていく白夜を見ながら、
「仲、良いんですね」
と田丸女子に言った。多分俺は苦笑いを浮かべていたと思う。
「……春枝君にはそう見える?」
そういう田丸女子は持っている舐めかけの飴に目を落としながらほんのり柔らかい笑顔をしていた。
その顔を見て気付いたが、恐らく田丸女子は白夜連に好意を抱いているのだろう。
出たよ。また恋だよ。
恋について知りたければ、直接この田丸女子に問うてみればわかるのだろうか。
最初の俺の中の疑問であるところの「恋」については、真実味のある経験談として、いつか田丸女子に訊くことにしよう。
しかし、今はそれよりももっと大きな謎の解明が先だ。
その謎の正体に、俺は抗議したいのだ。
「とりあえず、俺はこれで……」
そう言って文学部室に向かおうと踵を返したが、すぐにガシリと腕をつかまれた。
予想以上に強く掴まれ少し痛い。
「いやいやいや、逃げないでよ春枝君。んー? それともムツゴロウ君って呼んだ方がいい?」
振り返って見た田丸女子の顔は悪そうな笑顔だった。
そう都合よく逃げられないってことね。田丸女子抜かり無し。




