中国古代の王朝~「周王朝」と「諸侯」 その二~
ほぼ書き終えた物を無くしてしまいました((涙))今回も短いです。申し訳ありません。
次に周王朝は、諸侯との関係性を商王朝の「縦の関係」から「横の関係」に替えたことにある。商王朝時代は異民族狩りをしたり、神を奪ったり、奴隷兵を使ったりと上が支配する体制であった。これはどこの王朝でもあった事だから、商王朝だけの事ではない。しかし、周側についた諸侯はそれを良しとしなかっただろう。そこで周王朝は違う政治体制を構築せねばならなかった。
そこでまず「寛容」を掲げたのではないか。商王朝における異民族に対する扱いや神の名を用いた行いを改め、なるべく「赦す」方向にいったのではないたろうか。夏から商へ遷る際にはかなりの血が流れたようであるが、商の遺跡からは遺体の山はでてきていない。紂王の庶兄の微子啓を降伏したとはいえお咎めなしで赦して厚遇しているし、商の遺民を制御するのが難しかったとはいえ、紂王の遺児たる「武庚」に商の旧領を与えているのである。このような処置を旧王家に行った以上、商側の諸侯全員に酷い処置をしたとは考えにくい。領地を削ったり、領地替えを行ったり、領主を替えたりはあっても、諸侯の数そのものは大きく減らなかったのではないだろうか。おそらく、王都の周り、いわゆる「畿内」の土地は王家の物になっただろうが、周王朝の直轄地は少なかったに違いない。




