古代史の歴史書~司馬遷・太初暦~
父を喪った司馬遷は、そのまま服喪にはいる。中国では古より父母の死に際しては三年(正解には25ヵ月)の服喪を行う風習があった。当然例外はあったが、歴史の徒であり、儒学を学んだ司馬遷がそれを蔑ろにする筈もない。期間通りに服喪を全うする。その間の過ごし方として、厳密にはものすごい過酷な行があるのだが、一般的には家を出なければ良いだけなので、遺言を果たすため精力的に史料に向かっていたのではないだろうか。
喪が明け、父の後を継いで大史令となった司馬遷は、公務として大きなプロジェクトを任される事となる。大初歴の制定である。
古今東西、強い若しくは強くあろうとするリーダー達は暦を改訂することを考えた。ユリウス暦やグレゴリオ暦、ヒジュラ暦などである。武帝も自分の治世に、後世まで残る功績を残したかったであろう。またこの時代の暦はいわゆる太陰暦であるから少しずつ季節と暦がずれるうえに、戦乱が内乱なども重なるとずれが大きくなってくる。その他様々な理由により、暦の改訂は必要になるのだ。
歴の改訂はプロジェクトチームによるものだったが、司馬遷は中心的役割をはたす。司馬の姓は、歴史のみならず天文も司るのだから、また一つ祖先からの事業を成し遂げた司馬遷であった。太初暦を制定したのち、歴史書の編纂にとりかかる司馬遷であったが、そこに悲劇がふりかかる。「李陵の禍」である。




