中国古代の王朝~「周王朝 春秋時代」 宰相 倒行逆施 その四十~
勾践はてぐすね引いて待っていた呉に、徹底的に敗北する。逃げに逃げて、会稽山という山の頂上まで追い詰められたと伝わっている。三國志好きなら、聞いたことのある地名であろう。事ここに至って、勾践は范蠡に詫びながら何か考えはないかと問うた。范蠡は「勾践の身を差し出してでも呉に降伏をして、越の国だけは存続させるべし」との進言を行い、勾践もその進言にのる決意を示した、という。しかし越にも范蠡や文種といった有能な臣下がいたのだから、こうなる前から、呉に何度も領土を割譲してでも停戦を打診してはいただろうと思う。それでも呉は戦いを続けた。そこには勾践や范蠡を畏れた伍子胥や孫武が、この期に越を滅ぼさんと考えて無視を決め込み、夫差へは奏上もしなかったに違いない。当然范蠡も呉を食い止めるべく色々と画策したのであろうが、兵は水のごとし、と孫子の兵法はいう。元々国力に劣る越が、勢いにのり、なおかつ弔い合戦となる呉の兵に対して、多少の細工で止めることは無理であった。
范蠡としては、このような事態に至るまでに、何とかしたかったであろう。ここで勾践の身を差し出す事などは、軍師としては身を切られるより辛かったに違いない。それでもこのままでは、勾践諸とも越の中枢は全滅してしまう。ここは再起を期し、捲土重来を図るためにも、勾践に恥辱を被ってもらわなければならかった。とはいっても勾践が死んでは元も子もなくなる賭けである。范蠡としては、それなりに保険をかけていたであろう。それが前話で出てきた伯嚭に対する働きかけである。
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