中国古代の王朝~「周王朝 春秋時代」 宰相 火より水を恐れよ その三~
古代中国で「法」といえば、韓非子や始皇帝、秦の国といった「厳格で非情なイメージ」が想起される。実際法家では情や徳ではなく、法によって民を統治する方法を論議しあう訳だから、イメージはあまり変わらない。
子産が作った法は詳細が後世につたわっていない。春秋の著述者は子産の生涯に関しては詳細を記述しているのに、法に関しては曖昧である。孔子の関係者ならば子産に対しては熱心であっても、法に対して冷眼視するのは仕方ない事かもしれない。しかし子産の創った法は、後世の様に民に優しくない法なのであろうか?とてもそうは思えない。何故なら、子産は孔子が認め、季札が評価した人格者である。そんな人物が民を置き去りにするとは思えないからだ。
この頃の鄭は、前にも書いたが両面外交というより無節操な外交というべきものであった。上がこうでは下々が従うはずもない。他国から節操がない、と思われていたように、鄭の民達は国を売る事にもあまり抵抗がなかったであろう。そんな状態を続けては、やがて国が滅びるのは必定である。宰相となった子産は数々の改革を行い、晋と楚の停戦もあって戦争もなかったゆえ、国力を回復させる事はできた。しかし、人心の荒廃は中々解決できない問題である。そこで、ある程度の独裁権を持って国力の回復をした後で、自分も含めた貴族階級を法で縛ることにしたのではないか。貴族階級が法によって裁かれるのならば、民達は納得して国に尽くすことが出来るであろう。どこかの金髪の覇者ではないが、「公平な裁判」と「公平な税制」は善政の基本である。
次に他国にはない、鄭の国ならではの事情があったのではないか。古今東西、様々な世界をみても敵対する大国に挟まれた地の民は、節義を通そうにも大国の事情に巻き込まれるし、実力を示そうとすれば大国両国から潰されかねない。そんな状況下に人間がおかれると、大概は享楽的で合理主義になるように思われる。そのような土地柄では、「徳」や「情」の曖昧な治世よりも、より分かりやすい「法」による合理的な政治の方が受け入れやすかったのではなかろうか。また、このような土地は商人が活動しやすい場所でもある。商人にとっても支配者の都合による政治より、法による政治の方がやり易かったに違いない。
そして、国力を回復し、法を創り貴族階級を糺すことで人心の乱れを整える事で、往時の強国までいかなくても、鄭という国の自尊心を取り戻したかったのではなかろうか。自尊心のない国民は簡単に国を売りかねない。国は貴族階級だけでは成り立たないのである。民あっての国であることを子産は常々おもっていたのではないか。
更に法には、子産の後に続く執政たちを楽にする効力もある。子産自身はカリスマ性が高く、政策も当たったので、民や貴族階級もある程度は改革を容認してくれたであろう。しかし、次代からの宰相は常に比較されるのである。このプレッシャーはかなりのものであったと思う。その中で法という拠り所があれば、負担は相当に軽減出来たであろう。実際、子産が次の宰相「子大叔」に温言を与えている。
「慣用な態度で国を治める事ができるのは、カリスマ性をもった一部の人間だけです。貴方はこれから厳しく治めるべきです。慣用な態度は水に通じます。水は誰でも馴れ親しめるかわりに、一度激流となれば大勢の人が溺死します。貴方の治世は火であるべきです。火はだれでも畏れて、近づこうとしません。その分、焼死する人も少ないのです。」
子産は自分が一部のカリスマであることを知っていた。そのため、法を創り、宰相や執行部が過大なプレッシャーに晒されないようにしたのであろう。そして、自分と同じことをして失敗しないよう、暗に法を恃むよう、子大叔に諭したのである。
しかし、寛容な政治は執政の理想でもある。子大叔は子産の言葉を聞きながらも、自分も寛容な政治を志してみた。結果、国内に盗賊が増え、蔓延るようになってしまった。後悔した子大叔は盗賊を全員死刑として、厳格な態度を打ち出したという。
子産は最後まで先見性に優れた、真の名宰相であった。子産亡き後、鄭は150年以上続く。子産がいなければ、鄭は内憂外患のあげく、民が国を売り渡したかもしれない。




