中国古代の王朝~「周王朝 春秋時代」 士と庶民 その二~
春秋時代の士と庶民の代表として、もう一人の人物をあげたい。名を|解揚《かいようという。歴史好きなら、日本でも同じような物語があり、それなりに知られているエピソードの登場人物である。
晋の国の人で、おそらく「士」の身分であったようだ。武勇に優れた人物で、貴族階級に劣らぬ扱いをうけていた。一度鄭との戦争で捕虜となった際も、鄭側から貴族と同じ賓客の扱いをうけ、晋側がわざわざ鄭の将軍を捕まえて人質交換するほどの念の入れようだった。
このように大切にされていた解揚であったが、
武人たるもの、虜囚の辱しめを受けたことに忸怩たる思いがあったであろう。汚名返上の機会を伺っていたようだ。
あるとき春秋五覇の一人と言われる、楚の「荘王」が、不退転の決意をもって「宋」の国へ攻めこんだ。この時代の戦は普通農閑期に行い、農繁期には兵を民に戻さねばならなかった。しかし、荘王は帰らなかった。重囲に悲鳴を挙げた宋は、晋の国へ援軍を要請する。晋側も宋を助けねばならないことはわかっていた。宋の国は、唯一楚に下った事がない真の同盟国だったのである。しかし、この頃の晋はかなり国が乱れており、楚を相手に全面的に戦をする力がなかった。窮余の一策として、援軍も来ないのに、宋に「援軍がくるぞー!」と伝えて粘ってもらおうという、何とも調子のよい策戦が実行される。愚かな策であるが、この時の晋には他に方法がなかった。
その時、臆することなく、完爾として使者をひきうけたのが解揚であった。彼は一躍宋に向かうが、途中どうしても鄭の国を通らねばならない。そして、見知った者のいる鄭の国で捕まってしまうのである。荘王は「援軍はこない。」と宋に伝えれば無傷で釈放すると、解揚に提案する。解揚は断ったものの、荘王のしつこい頼みに最終的にこれを受けた。喜んだ荘王は、宋の城の前で「さあ、約束を果たしてもらおうか」と解揚に告げる。大きく息を吸い込んだ解揚は「宋の方々、晋の全軍をあげて援軍が来ますぞ!!」と叫んだ。宋の城から、歓喜の声が谺する。
一方、怒気を押さえきれないのが荘王だった。荘王は解揚に「約束をしたのに違えるとはどういうことだ!信義を守らなかったからには、どのような刑に処されても文句はあるまい!」と怒鳴り付けた。それに対して解揚はこう告げる。
「主君の命を聞き、それを遂行するのが臣の努めです。私は主君に二心をもちません。王が賂を渡して偽の言葉を言わせようとしたとて、私は死んでも命令を遂行するつもりでした。私が王の言葉に頷いたのは、命を遂げる絶好の好機が巡って来たからです。使命を遂げた以上、この身がどう処されようとも本望でございます。」
それを聞いた荘王は「忠臣よな」と頷き、解揚を釈放して帰国させたという。
見事な場面である。解揚の胆力と忠心の強さ、そして荘王の爽やかな対応、一幅の絵のようでさえある。実際この場面は、春秋時代の一場面としてよく用いられる。
前話の曹沫といい、解揚といい、主君のために一命を懸けるのは同じ志であろう。しかし、ここでも「赦す」という行為が、場面を彩ったわけである。赦した相手が共に「覇者」であった所がポイントではなかろうか。
覇者になる身であれば、有能さと器の大きさが重要となろう。桓公と荘王、どちらもそのような才に満ちていたことは確かである。まして覇者となれば、天下に一挙手一投足をみられるわけだから、多少のパフォーマンスも必要であろう。更に主君に忠誠を誓い、それを命を賭して実行した人間を赦す事は、臣下からの忠誠を得る好機になるのではないか。
曹沫と解揚、この二人がとった行動は、貴族ではできない主君への命懸けの忠誠の見せ方と、それを赦した偉大な主君という、後世へのいいお手本となってしまった。春秋時代の貴族と後世の人々にとっては、少々厄介な事例が出来たのかもしれない。




