しにがみ
炭鉱住宅に住む始は、奇妙な光景に出くわす。
自転車をきしませてやってくる配達夫は、何者なんだろう。
耳の奥に、きいきいと音が響いた。
「ねえ、向こうの角にいる自転車の人、見える?」
小学校からの下校途中、始は足を止め、隣にいる友だちにたずねた。友人はいきなり立ち止まった始を不思議そうに見つめた。それから背伸びして言われた方の五軒長屋が並ぶ通りの先へ顔を向けた。始はランドセルの肩ひもをぎゅっと握り、そちらのほうをなるべく見ないようにした。
「なんのこと?」
ひとわたり周囲を見た友人にキョトンとした顔で答えられ、始は腹のあたりがひんやりとした。枯れ葉がガサガサと音を立てて狭い通りを舞っていく。
やっばり、あれは自分にしか見えないのだ。
「それよりさ、これから秘密基地に行く?」
「きょうは、やめとく」
えー! という友人の声を半ば無視して始は止めた足を再び動かした。そしてさっきの話題にはふれず、帰路を急いだ。
早くしないと、「あれ」に気づかれそうで怖かった。
自転車のハンドルに手をかけ、じっとこちらを見つめる黒づくめの「あれ」が、どうか自分に気づかないようにといのりながら、もつれる足を励ました。
始が、「あれ」を始めて見たのは今年の夏だった。
「ん……」
蜩が鳴いていた。
オレンジ色のきつい西日が顔にあたり、眩しさで始が目を覚ますと、母はいなかった。狭い土間に設えられた台所の流しにはまな板があり、四つ割にされた人参が半分までいちょう切りにされていた。夕食を作っている途中で近所へ醤油を借りに行ったのか、あるいは共同水場で立ち話をしているのか。
始の家族は、炭鉱の五軒長屋の真ん中の部屋に住んでいた。
寝ぼけ眼で首の汗をぬぐいながら起き上がると、背中に木綿のランニングシャツが貼りついていた。あくびをして坊主頭をがしがしとかく。
四畳半に置かれたちゃぶ台には、夏休みの宿題が広げられている。「なつやすみの友 小学二年生」と印刷された冊子は夏休みも終盤だというのに、半分も進んでいなかった。
「あーあ……」
脱力してまた畳に寝転がる。笠つきの豆電球が天井からひとつぶら下がっている。畳に頬をくっつけ、蝉の鳴き声に耳をすませていると、まな板に包丁の当たる音が聞こえてきた。ついでにかすかに煮干し出汁の匂いも。密集する長屋のどこかの夕飯だろう。外で立ち話をする女たちの声や、石けりでもしているのだろうか。小さな子どもたちの笑い声もした。
ぬるい風が猫の額ほどの庭から吹いてきて、背後の六畳から通り道に面した台所の窓へと抜けていく。
父は今日は一番方で三時には仕事からあがるはずなのに、まだ姿が見えない。残業だろうか。けれど、帰宅したならすぐさま始を共同浴場へ連れて行くだろうし、食事の時間になれば、ちゃぶ台を勉強に使えない。いま少しでもやらないと、今朝がた母からきつく叱られて遊びに行くことを禁じられたのと同じく、明日も宿題をして過ごすはめになるだろう。
腹立ちまぎれに、ささくれた畳をむしる。
もたもたしていたら、歳上の男の子たちが裏山の秘密基地を完成させてしまう。作るのを手伝わないと、基地に入れてもらえないかもしれない。それはイヤだ。
始は仕方なしに起きあがると、鉛筆を持ち、のろのろと算数のページをとき始めた。
七かける三は二十一、七かける四は二十八。やっとこさっとこ解いていく。何問か終わった時、どこからか耳障りな音がしてきた。
きい、きい、きい……。
金属がきしむ音だ。広場のブランコだろうか。それにしては、順番を争う子どもたちの声がしない。
きい、きい、きい……。
木戸が風に揺れて蝶番がきしむ音? でも木戸って、どこの? 便所の? 共同便所は始の家からは離れているから、聞こえるはずがない。
きしむ音は、やがて徐々に近づいてきた。開いたままの台所の窓を見ていると、つばの大きな麦わら帽子がゆっくりと横切っていった。顔は窓のところに取り付けられた棚に並べられた笊や鍋に邪魔されて、見えなかった。麦わら帽子の人物は、やがて開けっぱなしの玄関の前にさしかかった。今度は暖簾が上半身を隠す。
見えたのは黒い雨ガッパのような服と、天気にそぐわない黒いゴム長靴だった。むき出しの膝あたりが、やたら白く感じた。
大人が乗る、ごつくて大きな自転車をひいていた。耳障りな音は自転車からだった。
郵便配達の人かな。暑いのに、ヘンなかっこう……。
始は鉛筆を上唇と鼻の間にはさんで掛け算の問題を見ながらも、きいきいという音に耳をすませた。
と、おとなりで音が止んだ。かわりにかたん、と小さく軽い音がした。
今のは郵便受けの蓋の音だろう。やっぱり、郵便配達の人だ。
でも、こんな夕方に来るなんてめずらしい。いつも一時過ぎくらいに来るはずなのに。
なんかヘンだな。
郵便配達の人は、麦わら帽子をかぶらない。黒い服を着ていない。
始は玄関でズックをつっかけると、暖簾をわって通りを見た。黒い影が自転車を引いたまま、長屋の角を曲がるところだった。とたんに犬が吠える声がした。さっきの人に吠えたのかもしれない。
始は玄関を出て隣家の郵便受けを覗いた。葉書が一枚入っていた。けれど、葉書は白紙だった。となりの鈴木さんの家には、若い夫婦とおじいさんが住んでいる。
誰の名前も書かれていない葉書。ただ、黒い縁取がされていた。
見ているうちになぜか両腕に鳥肌が立った。
見てはならないものを見たような気がして、始はあわてて郵便受けの蓋をしめた。
そんなことより、宿題をしよう。明日は、みんなと遊ぶんだ。
始は家中の窓や戸を閉めた。もしも、あの黒い郵便配達人が戻ってきたらと思うと、閉めずにはいられなかった。
なんだか焦点がぐらぐらしたまま上がり框に片足を乗せると、背後でガラリと扉が開いて始は飛び上がった。
「なんだ、暑いのに閉めてたのか」
振り返ると、首にかけたタオルで始の父が顔を拭いていた。その後ろには、醤油の瓶を抱えた母もいた。
「とうちゃん……!」
始はしゃにむに父親に抱きついた。
「なんだ、なんだ」
父親の声は戸惑うように妙に甲高かったが、大きな手は始のあたまを撫でた。
翌朝早くに始は母に起こされた。
「鈴木のおじいさんが亡くなったの。母さん、手伝いに行ってくるから。ごはん食べて宿題しているのよ」
ふだんは割烹着ばかりなのに、今朝は白い襟のあるシャツに黒いスカートをはいた母を、始は起き上がって見送ったあと布団を頭からかぶって体を小さく縮めた。
もしかして、あのヘンな葉書が届いたからじゃないのか。
自分が見ていたのを、気付かれなかっただろうか。もし、それに気づかれたなら……。
おじいさんが亡くなったのは、連日の暑さにやられたからだとあとから聞いたが、始はどこか信じられなかった。
始はあれから何度か黒い郵便配達人を見かけた。
炭鉱住宅は五軒長屋が数十ならんでいた。長屋と長屋の間を横切る黒い郵便配達人は、いつも自転車をきしませ、犬に吠えられ猫にうなられていた。
そのたびに始の足は止まり、背中をいやな汗が流れた。
けれど、不思議なことに、黒い人が見えるのは始だけのようだった。同じく住宅に住む友だちにそれとなく聞いても、みな首を横にふるだけだった。なぜだろう。赤ん坊のとき、疳の虫がきつくて泣いてばかりだったと母親から聞いたことがあるが、それが原因だろうか。
軒下で井戸端会議をしているおばさんたちの横を通っても、誰も気づかなかったのを見て確信した。
郵便配達人を見ると翌日には必ず、お弔いの知らせが回って来た。もちろん、千人近い従業員を抱える炭鉱だ。出される葬式はそれなりの数だったろうから、郵便配達人を見かけなくても亡くなる人はいた。
それでも始の考えは覆らなかった。
自分が見かけなくても、あいつはきっと黒縁の葉書を届けて歩たにちがいない。
あいつは死神だ。
いつしか始は勝手にそう解釈するようになった。
やつが来ませんように。
始は、まいにち祈って過ごした。
そうはいっても、まだ幼かった始は半年もすると、黒い郵便配達人のことから関心が離れていった。
三人きりの家族だ。家には年寄りがいない。父も母もまだ若い。まだ死ぬような年ではない。そんな気安さがどこかにあったのかも知れない。恐怖心が薄れてくると現金なもので、あれの姿を目にしなくなった。
来年に控えた東京オリンピック、それにあわせて父親がテレビを買おうかといったこと。秋の栗拾いと焚火で焼き芋、冬には鉱山住宅の子どもたちを集めてのクリスマス会で配られるサンタブーツに入ったお菓子、スキーにそり遊び。毎日が楽しいものでいっぱいだった。
そして春になる頃には黒い郵便配達人は記憶の片隅へと押しやられた。
やがて始は小学六年生になった。
夏休み、いつもの裏山にある秘密基地で夕方まで遊び尽くして帰ってきた。夕暮れ時、空は夕焼けで真っ赤に染まっていた。玄関先に並べた鉢の朝顔は明日の朝に咲く蕾がいくつもついていた。ホオズキは青い房がわずかに赤く色づいてきていた。
始は相変わらずの坊主頭だったが、すでに母の背丈に追いついていた。来年は中学生になるから、裏山で釣りをしたり泥だらけになって駆けまわるのは今年の夏が最後かも知れない。
中学に上がったなら、自転車を買って貰えないだろうか。ここ最近の始の想いはそればかりだった。中学校までは小学校よりも距離がある。炭鉱住宅の中学生たちは半分くらいは自転車に乗って登校している。
自分用の自転車が欲しいというのは贅沢とわかっているけれど、父親にお願いしてみないと。
すると。
きいきい……きいきい……と表から音がした。
どきん、と始の心臓が跳ね上がった。
きしむ音は、始の古い記憶を呼び覚ました。思わず体を固くして耳を澄ます。
かたん。きいきい、きいきい……かたん。
木の蓋が二回鳴った。
二回も? いま「あれ」はどこにいる。始は玄関に引き返し、ガタつく引き戸をできるだけそっとあけて表をのぞいた。
とたんに、すうっと目の前を黒いかたまりが通った。
かたん。
驚く間もなく、自宅の郵便受けに葉書が滑り込んでいった。
きい、きい……。
始のことなど目に入らないように、黒い雨合羽の「あれ」は通りを進んでいく。
「あ、あっ」
恐怖よりさきに体が動いた。はだしのままで飛び出した始は、郵便受けの蓋をはねあげて、中のものをつかんだ。
黒縁の葉書が、二枚。
始は震える手で二枚の葉書を見つめた。
「おい、まてよ!」
始より頭一つ分高いところにある麦わら帽子がゆらりと動き、始を振り返った。大きな鍔の陰になり、顔はまるでそこだけ塗りつぶさたように、目も鼻も見えなかった。
「こ、これ……どういうことだよ!」
箪笥の奥にしまっておいた着物のような匂いが鼻を抜けた。と、ヤツはくるりと向き直ると、再び自転車をきしませて隣の家へと進んでいく。
「まて、まてよ!」
始のことなど、まるで見えていないかのように、配達夫は隣家の郵便受けへも葉書を入れた。
鈴木さんのところへも入れた!
始は葉書を持つ手が震えた。思わず通りを振り返る。もしかして、ずっと入れてきたのか。それは、つまり……。
はっ、と始は気づいた。今日は父は二番方で働いている。長屋の大人たちは同じ勤務時間になっているはずだ。母親は、今日は鉱山事務局へ手伝いに行って……。
始の唇がわななく。急速に熱くなった喉から嗚咽が漏れた。二枚の葉書を握りしめると、涙があふれてきた。
通りの端まで葉書を入れ終えた配達夫は、始のところまでまた自転車をひいて戻って来た。
道路にしゃがみ、泣きじゃくる始へと腰をかがめ白い骨ばった手を伸ばして来た。
「……っ?」
配達夫は長い指で、しゃくりあげる始から葉書を一枚抜き取っていった。
くしゃくしゃの葉書を肩から斜めにかけた大きなカバンへしまい、留め具をぱちんと嵌めた時、茜色の夕陽に染まった長屋に地響きがした。
すぐにザワザワと人が動く気配がした。大小の叫び声とそれを聞きつけた長屋の住民たちが通りへと出始めた。
「事故だ!」
誰かの声がした。鉱山の入り口から駆け下ってくる男たち、女たちの悲鳴。大勢が慌ただしく走り回る通りで、始と配達人はまるで誰の目にも留まらぬとでもいうように、そこにいた。
始の手の中の葉書は、いつしか消えていた。
炭鉱での事故で、始は父親を亡くした。始のいた五軒長屋の働き手は、みな亡くなった。
始と母は、都会へと移り住んだ。買って貰った自転車で、始は新聞配達をして家計の手助けをし、高校へ進学した。
配達夫は見なくなった。
住まいの公団アパートは炭鉱住宅のように何棟もあり、犬の吠える声が響く夜にはあれのことを思い出した。
あの時、母は事故のわずか数分前に事務所から出たところだったという。
葉書は二枚。始は両親を失わずにすんだ。
もう一枚の葉書のは、母の命を奪わなかった。けれど、始はそうではない、と思うようになった。
あの葉書は自分宛だったのかも知れない、と。
人はいつ死ぬか分からない。子どもの頃、夏休みの宿題をいつまでも終わらせられなかった始は、いつしか真面目な青年になっていった。
各地の炭鉱は閉山され、世は高度成長期へ入っていった。
やがて始は銀行員になり、結婚もした。
結婚して間もなく、母が始の成長を見届けるようにして亡くなった。郵便配達人は来なかったらしい。ただ、母が亡くなるとき始は病院に付き添っていた。家の郵便受けを確かめる暇はなかった。あの葉書が届いたのかどうか、本当のところは分からぬままだった。
それから数年したある日、帰宅すると妻は居なくなっていた。
始に思い当たるふしはあった。前夜の諍いだろう。
「さっさと迎えに行って、頭を下げたら? いつまでも意地を張っていたら本当に帰って来なくなるわよ」
女性の先輩行員から促されて、始は妻の実家へ行くために駅へ向かった。
結婚して五年が過ぎたが、まだ子どもはいない。そんな生活が続いているせいだろうか、妻は朝なかなか起きず朝食も弁当も作られていなかったりする。
ことに、ここ一週間は余計に酷い。帰宅すれば、早い時間でも床に入っていることもある。
専業主婦のくせにと、始は苛だつ。こんな生活が続くのなら、もうダメなのかも知れない。
妻はいぜん始に言い放った。
「まいにち毎日、なにしていたって聞かないで。息が詰まるわ」
いつの間にか、すっかり堅苦しい性格になってしまった自分に溜め息が出た。
何をしていたか聞いてしまうのは、始の悪い癖なのだろう。一日一日を無駄にしてはいけない。いつも気を抜かずに暮らしている始を窮屈に思ったのかも知れない。
夏の盛り、週末の金曜日だ。サマースーツを脱いで腕にかけた。ネクタイをゆるめ、妻の実家への手土産にステーションデパートから老舗和菓子屋の水ようかんを買った。最近、食欲がないといっていた妻でも食べられるようにと。
改札口を抜けていつもと違うホームへ向かって人の波を歩いて行った。歩いているうちにシャツがじっとりと膚に張り付いてきた。コンクリートで作られた駅舎の通路は湿気を含み、始の七三に分けた額にも汗が浮かんだ。
始の足が止まった。
後ろから来た人が肩にぶつかり、迷惑そうな視線を投げて行く。始はあわてて通路の端へ体を避けた。
何か、違和感があったのだ。コンクリートの湿った匂いが、何かを呼び起こさせようとしている。
木造住宅の長屋、古い着物のような匂い。そして……きい、という音が。
始は目を見張った。行く手から自転車がやってきた。
人の動きに逆らい、見覚えのある自転車をおしてくる麦わら帽子が視界に入った。
それなのに、周囲の者、誰一人として気づかない。額の汗は一気に顎の先まで流れた。
きい、きい、きい……。
配達夫は始の前に止まった。そしてうつむいたまま、あの大きなカバンから葉書を取り出し、始へと差し出した。
始は見えないふりをしようとした。だが、それは無駄なことだった。
胸元に突き付けられた葉書は、二枚だった。
一枚は、折り目一つない真っさらなもの、そしてもう一枚は。
くしゃくしゃになった葉書だった。
始の息が止まった。まぎれもなく、あの日の葉書だ。
こんどこそ、自分が死ぬのか。いや、二枚だ。なぜ、二枚なんだ。
「誰っ……」
ホームから電車が到着したアナウンスが流れた。人の波が慌ただしく動く。葉書を受け取ろうとしない始に配達夫は葉書を手から離した。
思わず葉書を拾った始は、ホームからの悲鳴を聞いた。
「救急車を!」
誰かが大声で叫んだ。どよめきが波のように起こった。階段から落ちた、若い女性だ、頭を打って血が……。
始の顔から汗が引いた。若い、女性。
「まさか!」
始はホームへと駆けた。まて、なぜ二枚だ。自分が死ぬのか、妻と。
それとも。
ここ数日の妻の様子がビデオの早回しのようによみがえった。具合が悪く、食欲がなく。もしや、妻は。
振り返ると、人ごみの中、麦わら帽子をかぶった配達夫の大きな口が耳まで吊り上がっているのがはっきりと見えた。
自転車のハンドルに手を置く配達夫。
階段の下、人垣の中に見覚えのあるワンピースと靴が血だまりに倒れているのが見えた。
「ああああ!!」
始の悲鳴はコンクリートに反響した。
きい、きい、と音が遠ざかっていった。
終
小説講座の課題
「帽子」「夏」「自転車」より