表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今日から〇〇恐怖症  作者: 莉猫。
1/1

悩みに悩んだ過去の話

中学二年生の頃でした。


中学で、学校給食が義務付けられたすぐ後の話です

その日の給食はコッペパン、ミネストローネ、とうもろこしとほうれん草の和え物、そして牛乳でした。

わぁ、好きなものばっかりだ。


緑のお盆に乗せられたそれらはまるで宝石のようで、僕のお腹をぐう、と鳴らせました。


「おっミネストローネ余ってんのか、じゃ食おー」

右隣にいた大食いの久保山が言いました。

僕らは四つの机を班になるように合わせて、

前に僕と大人しい亜由実ちゃんが、後ろに波奈と久保山が向かい合って座っていました。


「はいはい。順番に取りなさいよ~」


先生が言いました。

どうやら久保山の他にミネストローネを食べたい人が

沢山いた様子でした。


まだかな。


先生と久保山が争っているその上に、時計があります。

時計はもう、十二時三十五分を指していました。

いつもならばもう食べている時間帯なのに。

僕は足をふらふらさせて、給食にありつけるその時を今か今かと待ち侘びていました。


そして先生が言います。

「皆、もう食べてていいよ」


やった、と数人の声がし、僕も箸を丁寧に持ちました。

すると、向かいにいた亜由実ちゃんがちらっと僕の動きをみて、箸を握りました。

ミネストローネの中に、小さなウインナーが見えます。

僕はそれをつまみ、ゆっくり口に運ぶと上顎で切れ目を

入れ、上顎と下顎で噛みました。

そして、切れたウインナーを口で磨り潰しました。


美味しい。

箸をお盆に置くと今度はコッペパンを手に取り、

先の部分を思いきりちぎりました。

大きさは僕の手の半分ほどです。僕はそれを一気に呑みこみ、

牛乳の蓋を開けようとしました。


しかし。

胸の奥からもやもやとした気持ちの悪いものが、沸々と沸いてきました。そして口の中に酸っぱい味が溜まり始め、僕は掴んでいた牛乳を放し、口を抑えようとしました。

「うっ」

急に皆が遠くにいるような、変な感じがしました

久保山の話し声、校内放送、先生の声

お椀に僅かながら残ったミネストローネを、箸で掻き込む音

その全てが一瞬にして聞こえなくなりました。


聴覚が途絶えて最初に聞いた音

ガタッと机が揺れ、椅子が引かれ、先生や友達、

廊下を走る人の声がしました。

先生は僕の肩を掴んで揺らしています。

何があったのだろう


僕はさっきまで食べていた給食のお盆を見ました。

そこにあったのは自分の吐瀉物


僕が、吐いたのです




更に周りを見渡すと、僕の席から放れ、抱き合う女子達

鼻を抑えてじっと僕を見る野次馬達

「キモい」と言う久保山の姿がありました


あ...あ...ぁあ...


僕はまだ口に残っていた酸っぱい味を呑み込んで、

震える体を抱きしめていました。


保健室にて先生は、体温計を無理矢理口に押し込め、

無造作に僕をベッドの上に転がしておきました。


「家に電話しますよ」

僕は分かりました、とか細い声で囁きました

すると先生は微かに微笑んで、ピンク色のカーテンを閉め

何処かに行ってしまいました。


締め切ったカーテンの中に閉じ込められたような気がしました。

耳を澄ますと、カーテンの外側から保健室の先生が何か書類を書いている音が聞こえてきました。

白いベッドのすぐ横にあるのは、非常時用の桶です。

僕は毛布を胸の位置まで上げ、窓側を見ました。



僕のいるベッドは保健室の南側で、カーテンの隙間から外が見えます。

青く、雲のない空が一部だけ切り取られて、まるでそこだけが空であるかのように、暗く、閉鎖的に見えました。


僕は天井を見上げ、さっきの事を思い出しました。

吐いてしまった。



久保山が僕に気持ち悪いと言い、皆が怯えていました。

ほんの一瞬の出来事だったのに、妙に長く、スローモーションになってさっきの事が頭に流れてきました。

僕は皆に嫌われたのかもしれない。

もしかしたらずっと、久保山が今日の日を覚えているかもしれない。

もしかしたらずっと、友達が今日の日の事を笑うかもしれない。

その予感は的中しました。


次の日、僕は体育を見学するという条件付きで学校に来ました。

それから、無理はしないようにと親に言われました。

しかし、昨日のショックはまだ頭に残っていました。

それでも今日こそは、と思って教室に入ると

「よう、ゲロ吐き」という声が。



僕に声を掛けてきたのは、昨日気持ち悪いと言った久保山だったのです。

あまりのショックにぷるぷると膝が震え、僕は静かに机に座りました。すると隣で本を読んでいた亜由実が僕を一瞥して、

椅子を僕から数センチ離し、机を離しました。


「何だよ、嫌われたなーゲロ吐き野郎」

「気持ち悪いからこっち見んなよ」


久保山の声に目をぎゅっと瞑り、溜まってきた涙を我慢しました。すぐに泣いてはダメだと思ったからです。

あの時「昨日はごめんねー」と言えば少しは環境が変わったのかもしれません。しかし、僕にはそれが出来ませんでした。


その後も久保山の名付けたゲロ吐きというあだ名は広まり、ついにはクラス中が僕をゲロ吐きと呼び始めました。


もはや、クラスに居場所はありませんでした。

僕が何かする度に皆は僕をゲロ吐きと呼びたがり、女子も僕を嫌いました。

確かに吐いてしまったのは僕自身、僕がやった事だから、

何の否定も出来ませんでした。


朝は憂鬱な思いで起床し、頭を掻きました。

すると、髪の毛が二三本抜けました。

上体を起こし、親のいる一階に行きました。

「おはよう」

僕の母はにこっと笑い、朝食にフレンチトーストと、目玉焼きと、お浸しを準備していました。

しかし僕は、こんなの要らないと言い、教科書を整えて

さっさと家を出ました。

朝の薄い太陽が眩しく、日陰を歩きました。


何も楽しくありません。

楽しみは、忘れてしまいました。


二十分ほど歩くと学校が見え、校門の前で久保山達が僕を待ち伏せしていました。

「おはよう、ゲロ吐きの便秘野郎」

その頃久保山達のせいで僕は体調を崩し、

しょっちゅう下痢や便秘を繰り返していました。


それがますます面白かったのでしょう。

久保山達は、僕がクラスを抜ける度に「またかよ」と罵り、皆を笑わせていました。

弱くなった僕に成す術はありません。


僕に優しくしてくれた雅之さえ、僕を笑いました。

亜由実ちゃんは学校に来なくなりました。


耐え兼ねた僕が先生に相談しても先生は、あだ名なんだから大丈夫よ、と言い、全く相手にしてくれていませんでした。


きっと僕は先生からも嫌われているのだろう。

或いはこうして職員室に来る僕を煙たがっているのだろう。

僕は久保山や皆の嫌がらせをやり返せずに、ずっと、僕が悪いと自分を責めました。


吐いた張本人は僕であり、腹を下したのも僕であり、あだ名は僕の事だから仕方がない。

心の中では違うと言い続けている感情、意識、全てを押し殺し仕方ない、仕方がないと言い聞かせてきました。



給食はまた吐いてしまったらどうしようと考えるとろくに喉を通らず、牛乳だけを飲みました。

すると久保山が「また吐くんじゃねえの」と言います。

久保山に同調して他の人が「うえっ」と言い、僕に注目しました。

気持ち悪いなら、見んなよ

前はそう思っていましたがこの状況が毎日続くと、

誰かに見られる度に心臓の音が大きくなり、

落ち着かなくなり、周囲の期待するまま

牛乳を出してしまいました。

周りはそんな僕をほらね、と冷ややかな目で見つめ、

僕が失敗する度に笑い、馬鹿にし、侮辱しました

僕への悪口も無視も始まりました。


昼休みはカウンセリングに行き、最初は平常を装って先生と接しました。嫌われたら、聞いてくれないと思ったからです。

カウンセリングの先生は初老のおばさんで抵抗がありましたが、僕の話をまともに聞いてくれる人などいません。

僕はその先生にありのままの出来事を話しました。

親にも、友達にも話せない悩みを訴える内に、自分自身が卑屈に思えてきて涙を流したりしました。


しかし先生は、「まずは体調を良くすることよ」と言い、心配なら病院に行ったらいいよと言い、僕を精神面が可笑しい人だと扱いました。


僕は、可笑しくありません。

それなのにカウンセリングの先生は、僕に精神科を進め、

憐れむような目で僕を見てきました。


もう何もかも信用できない。


僕は遂にそう悟りました。

担任の先生も僕を毛嫌いしている、カウンセリングの先生は僕を可笑しい人として扱う、友達は僕を裏切った。

学校で吐いた、それだけの理由で



僕はいよいよ皆と心の壁を作り、自分自身を守ることに徹しました。家に帰ると父の書斎から新品のカッターナイフを取り出し、

腕に当ててみたりしました。

黄色の柄から飛び出た固い刃の先は、僕の真上にある電球に照らされて鈍く光っていました。

この刃が手首を抉り、血を出して死ねたらどんなに幸せか。

もう辛い思いをしなくて済むのか。



目を瞑り、静かに刃を手首に当て、弾かれたようにカッターナイフを捨てました。

心臓が高鳴り、呼吸が荒々しくなりました。

カッターの刃を当てた部分からは、ぷっくり血が出てきます。

僕は慌ててティッシュを取り、血を拭きました。

まだ生きていたい。

吐いただけで死にたくない。


心は必死に叫びますが、僕の体はまた、カッターナイフを握っていました。

楽になりたい、まだ死ねない、だけど死にたい

死にたくて、死にきれなくて、仕方がない。



家では、いつものように親がウキウキしながら料理を作っていました。

しかし僕はあの時の事を思い出して、何も食べないでいました。学校でもまともに食べていませんでした。

どうしてもお腹が空くと、自動販売機でジュースを買ったり、風呂上がりの調子の良い時にだけアイスを食べて飢えを凌いでいました。



学校に行きたくない日もありましたが、親に悩みを打ち明ける事も出来ず、結局休まずに行きました。

行ったら行ったで心は傷付き、帰宅すると自分の部屋に戻り毎晩のように泣きました。

ある時は下駄箱からシューズがなくなり、ある時は戸棚に

ランドセルを置いて立ち上がろうとすると、同時に椅子に座っていた女が自分の椅子を引き、戸棚と椅子の間に閉じ込められたりしました。

「ごめん、いたの?」

僕の横にいた女がやり過ぎだよ、と言って笑いました。



席替えで給食を食べるグループが変わった日は、

給食に一切手を付けずに漢字の練習をしました。


「こいつ、吐くのが嫌だからこうやんだよ」

久保山の声が聞こえても無視しました。


皆、僕が吐くのを嫌がるからと知っていて言いました。

一方僕は、そんな周囲を気にする度に具合が悪くなり、ますますますます皆を喜ばせました。

僕は具合が悪くなるとすぐトイレに行きます。

トイレで吐いてしまうのです。食べていなくても、食べていても。

具合の悪さは、久保山やクラスメイトが何か言う度に悪くなっていきました。吐いてしまえば良いのかもしれない、そうも思いましたが、また吐いたらもっと嫌われる。それが怖くて必死に耐えていました。


吐くことにばかり意識が向かい、授業もまともに集中できなくなりました。もし、ここで吐いたらどうしよう

皆に笑われる、一生嫌われ者になる、そんな気さえしました。


あまりに授業が辛い日は保健室に行き、休み時間になるまでずっと眠っていました。


ある日、久保山は僕に聞こえるようにこう言いました

「アイツ、死ぬんじゃねえの」



死ぬかもしれない。


粋にそう思いました。いや、そう願ったのです。

死ねるなら、死にたいと

しかし、そんな事は出来ませんでした。

一つは吐いたくらいで死ぬなんて間抜けだと思ったから、

もう一つは、僕を支えてくれる、ある人がいたからです。


「失礼します...あっ」


「あ」



扉を開け、いつもの保健室に入ると、「また来たね」と笑う保健室の先生と、見慣れない女の子の姿が目に映りました。

二人は何やら談笑していた様子で、机の上にお茶が二つ置かれていました。


「はじめまして、です...か」


「は、はい」


か細い声が僕の耳に届きました。

その人は、僕の隣のクラスにいた女の子でした。

サラサラの黒髪に、ほっそり痩せた体、真っ白に透き通った肌。

今まで生きてきてこんなに白い肌をした人に会ったことがないというくらい透き通った肌でした。

その存在もまた儚く、ふっとした間に消えてしまいそうです。


女の子は僕の顔を覗き込み、首をかしげました。

「顔に何か付いてます?」

「あっ...えと、違っ...」


まじまじと女の子の顔を見ている事に気付き、僕は慌てて

履いていたシューズを脱ぎ、その場に立ち尽くしました。


そんな僕のだらしない様子を見て女の子は、「ふふっ」と優しく微笑みました。

華やかな笑顔に、僕の心臓がドクッと大きな音を立てました。


「座って良いんですよ」


「は、はい」


僕は自分の足に視線を落としました。

変な人だと思われたのかもしれない。

久しぶりに人と話したせいで、緊張していました。

本当はすぐにその場を立ち去りたかったのですが、今から教室に戻ってもまた同じ様な事が起こるだけ。

僕は女の子の隣に十数メートル離れて立ちぎこちない会話を始めました。彼女は嫌な顔一つもする事もなく、僕の話を親身になって聞いてくれました。

僕は人前で吐いてから人が怖くなったんです。

でも吐いたのは他でもない自分のせいで、それが嫌で自分が嫌いで、死にたいくらいに辛いんです...

助けを求めたはずでしたが最終的に愚痴になっていきました。


僕が話終えると彼女は何故か口を震わせて泣いていました。

「ぁ...ごめん、こんな話

聞きたくないよね、自分でどうにかしろって話だよね」

「違うの」

彼女は僕の肩を叩きました。


「それでも学校に行くなんて凄いね」


「いやいや、そんな事...」



僕は笑い、クラスにいるだけでも一苦労だよと付け足しました。


「私なんか...」


彼女は特別支援学級で学習しているらしく、普通のクラスには来れないという事でした。


「私なんかろくに学校に来てない不登校だし、何て言われるか分からないから来ない臆病なんだ。だけど良いなぁ...

貴方は勇気があるんですね!」


久しぶりの誉め言葉でした。

僕みたいな臆病で弱虫な人間に勇気があるだなんて。

その時、僕の目頭に熱いものが込み上げて来るのが分かりました。

僕はすかさず言いました。

「ありがとう」

「どういたしまして...あれ?」


女の子は僕の顔を覗き込み、泣いてると呟きました。



「ああ、ごめん。嬉しくてつい...」

僕は腕で涙を拭き、恥ずかしくて後ろを向きました。



「もう、泣いても良いのに。我慢は良くないですよ」


我慢は、良くない。

昔テレビで聞いた何気無い言葉だったものが、突然意味を成したように。その言葉は、ひどく新鮮に感じられました。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ