第八話
アヤカシに抱き上げられたきさらを、玖音が代わるように支えた。その体から滴る赤い雫を見た玖音がハッとする。
「これ、『緋珠』だわ」
「……ひじゅ?」
何、それ。
「血じゃないの。これは、花の汁よ」
血じゃない?
じゃあ、きさらは無事なの?
「今の私が手を貸してしてあげられるのはここまで」
アヤカシが、玖音に支えられながら立つきさらの顔を覗き込むようにじっと見る。
「さあ、しっかりするのよ。彼はあなたを助けにここまで来た。あなたは彼を助けなくては」
アヤカシの言葉にきさらの目が青ちゃんを捕らえた。
きさらはその光景に目を見開き、口元を両手で覆う。その手が小刻みに震えていた。
「できるわね?」
アヤカシに問われ、きさらはキッと表情を引き締めると、力強く頷いた。
その顔にアヤカシは笑顔を見せると、大きな尻尾を翻し、闇夜の中へと帰っていった。
きさらは青ちゃんを仰向けにして真っ赤な腹を拭う。大きく開いた傷が見え、またすぐに血に覆われる。
俺の足はというと、倍ぐらいに腫れ上がり青紫色に変わっていた。
『緋珠』ではなく、本物の青ちゃんの血で手を染めて、きさらは青ちゃんの傷を診る。
「とりあえず血は止めたけど、早く小屋でちゃんと治療をしないと」
一時的な血止めを施した青ちゃんの顔は、すでに死人みたいな土気色。
俺は腫れた自分の足に木の棒を添え、着物の裾を裂いた布でぐるぐると縛り付け立ち上がる。
――うん、立てる。
青ちゃんの傷口が開かないよう、その体の下に潜り込み、青ちゃんを背負った。
「玖音、おれと青ちゃんを縛って」
途中で俺が青ちゃんを、落としてしまうことがないように。
俺のお願いに、玖音は無言で首もとに巻いていた長い布を取り、俺と青ちゃんの体を一つに括った。
青ちゃんにすっぽり覆われるような形。それでも俺は、青ちゃんのつま先をどうしても引きずってしまう。
冷たくなっていく青ちゃんの体から、俺の背中に生暖かいものが染みていく。
自分のものじゃない血が、自分の足を伝って流れるのを感じた。青ちゃんの命そのものが、流れて行ってしまっているようで俺は焦る。
体重が怪我をした足にかかる度、ズキズキとした痛みが走った。
刀を杖に足を進める。
気持ちは前へ前へと行きたいのに、足はなかなか前へと進まなかった。
こんな怪我さえしなければ、もっと早く歩けるはずなのに。
俺が弱っちいから。
俺が羅刹にやられなければ。
玖音ときさらは互いを支え合い、ときどき膝をつく俺を助け起こす。
さっきは駆け抜けた道が、やたらと険しく遠く感じる。
流れ出る血の量とは逆に、青ちゃんの体はどんどん重たくなるみたいだった。
ようやく、きさらの小屋を目で確認できる所まで来ると、小屋の前で竹千代がうろうろとしている姿が見えた。
足に添えた木が、ついに重みに耐えられずベキリと折れて、俺は背中の青ちゃんと一緒にベシャリと地面につぶれる。
「きさら! ハチ! あお!」
竹千代が俺たちを見つけ駆けてきた。
「どうしたの、ねえ、しっかりしてよハチ! あおはどうしたの。ねえ!」
竹千代は俺をゆさゆさ揺するけど、一度地面に伏してしまった体は、もう持ち上がらない。
「待ってて。今、ジジ様を呼んで来るから。ね」
きさらの声がしてしばらくすると、ふいに背中が軽くなり、俺は顔を上げた。
そこには青ちゃんを抱えたジジ様がいた。
「おめぇは? デコ」
「……俺は平気」
短く問われ答えると、ジジ様はしわくちゃの片腕で軽々と青ちゃんを小屋へと運んで行った。
俺は後から竹千代と玖音に支えられ、のろのろと小屋の中へと入る。
小屋ではすでにきさらが青ちゃんの治療に入っていた。今まで見た事がないような真剣な顔で、青ちゃんの裂けた腹を縫い合わせて行く。
玖音が言った。
「大丈夫よ。きさらは誰かを救うための術に、忍の技よりも医術を選んで手に入れたんだもの」
良かった。青ちゃんは助かる……。
俺は隣の部屋の床に転がった。
「ちょっと、あんたも怪我してるんでしょ」
「おれはだいじょうぶ。……寝てれば治るよ」
「あたしが大丈夫じゃないの! いいからほら、大人しく診せなさいよ」
顔を赤くして怒鳴る玖音は元気そうで、俺はちょっとホッとした。
大人しく……とはいっても、もう動けない俺はされるがまま、玖音に傷を診てもらう。
玖音は忍としての身のこなしも、道具の扱いもきさらより上手だと思うけど、傷の手当はきさらに比べてへたっぴだ。
腫れた足は包帯でやたらとぐるぐる巻きにされ、ずしりと重たい。擦り傷だらけで腫れた顔にまで、包帯を巻きつけるから、息ができなくなりそうだった。
「……背中も診せて」
肩の傷に布を当て終えたあと、ためらうように言った玖音に俺は首を傾げた。
「なんで? 背中は平気だよ。痛くない」
俺はあいつらに背中は向けていない。
「……いいから。地面に叩き付けられたりしてたじゃない。もう! さっきからちょっと煩いわよ!」
絶対に俺より玖音の方がうるさいと思う……。
俺は肩に当てられたばかりの布を剥がさないように、肩の出る袖無しの着物から両の腕を引き抜いた。ひやりとした空気に背中が晒され、うっすらと鳥肌がたつ。
そこに、さらにペタリと玖音の冷たい指先が触れ、俺は一瞬、体をびくりと跳ねさせた。
まじまじと俺の背を見る玖音は無言で、俺は首をひねって玖音を振り返る。
「ないでしょ? 傷なんて」
「うん……ない。何もないわ……」
安堵したような息をつきながら玖音が呟く。
ほらね。だから言ったのに。
「ねぇ玖音、もう着てもいい?」
訊いたおれに、玖音はまた頬を赤くした。
「い、いつまでそんな恰好してるのよ! 早く着なさいよ! 馬鹿!」
怒られ俺はちょっと膨れる。玖音が見せろって言ったのに……。
俺は着物に再び腕を通す。
向日葵色の上着は洗濯桶の水の中で、今は着ることができない。
「ハチ!」
隣の部屋できさらの呼ぶ声がした。
青ちゃんに何かあったのかと、慌てて部屋へ足を引きずりながら駆け込むと、そこには少し疲れたような、きさらの笑顔があった。
見ると、青ちゃんがうっすらと目を開いている。
「青ちゃん……」
俺は青ちゃんの名前を呟いたけど、青ちゃんはまたすぐに目を伏せてしまった。
「青ちゃん!」
声を大きくした俺をきさらが止める。
「ハチ、青ちゃんはもう平気だから」
「青ちゃん、青ちゃん!」
「ハチ」
きさらがちょっと恐い声になり、俺は黙る。
「あとはゆっくり休ませてあげて」
そうして、俺は部屋から閉め出されてしまった。
俺も看病したいのに……。
隣部屋の隅に俺は丸くなる。
でも良かった……。
青ちゃんが生きてる。
本当に良かった。
鼻の奥がつんとして、俺は膝をぎゅっと抱えた。
こんな気持ちになるのは二度目だ。
俺はまた青ちゃんを殺しかけたんだ。
青ちゃんと会った日のことはよく覚えてる。
あの日は俺にとって、すごく色んなものを手に入れた、最高に特別な日になったから。
賽ノ地から、お日様の沈む方角へ山を三つ越えた所。そこが俺が青ちゃんを見つけた所。
山で一人でいた頃も、それなりに、俺はおもしろ可笑しく暮らしていた。
春は花が咲き乱れ、夏は蝉の大合唱。秋は葉っぱが色づいて、冬には雪が舞い落ちる。
退屈だと思ったことはなかった。
――初めから一人だったわけじゃない。すごく小さかった頃、本当のお父さん、お母さんではなかったけれど、優しい人たちに囲まれていたことを覚えてる。
でも、俺がときどき『やらかす子』だってことが分かって、俺はそこにはいられなくなった。
その日、俺は木の上にいて、たまに見かける盗賊たちが何かを追いかけているのを見物していた。
俺も盗賊にはときどき出くわしていたから、盗賊に追いかけられている、青い髪に赤い目をしたそいつが、どうするのか興味があった。
でも、そいつは驚くくらい強かった。
それが青ちゃんだった。
その日まで、俺はまだ、俺より強い奴を知らなかったから、強い青ちゃんを見つけてすごく嬉しかった。
そして思った。
こんなに強い青ちゃんなら、俺が一緒にいても大丈夫。
青ちゃんなら、俺といても死んだりしない。
それがすごくすごく嬉しくて、俺は青ちゃんを追いかけた。
初め鬱陶しそうに俺を見ていた青ちゃんが、初めて俺に笑いかけてくれたとき、初めて俺の頭に手をのせてくれたとき、俺は幸せな気持ちでいっぱいで、ずっとこんな日が続けばと思っていた。
それなのに、あの日、俺は『やらかしちゃった』んだ。
賽ノ地へとやってきて、そんなに経っていなかったと思う。
賽ノ地は盗賊やアヤカシも多くって、俺たちは今まで以上に刀を振るうことが多くなっていた。
あの日も青ちゃんと二人で強い奴をやっつけて――。
俺は青ちゃんの戦い方が好きだった。瞬時に状況を見極める赤い目も、刀を自在に操る右腕も、軽やかな身のこなしも、なんだか風に乗るみたいで綺麗で、俺は思っちゃったんだ。
青ちゃんみたいになりたいと。
気づいたら、俺は青ちゃんに刃を突きつけていた。まるで諦めたように力を抜いた青ちゃんに、我に返ったときにはもう、俺は青ちゃんから右腕と右目を奪った後だった。
違うのに。
こんな風に欲しかったわけじゃなかったのに。
ただ悲しかった。
自分の手の中にある青ちゃんの右腕が、もう、青ちゃんによって振るわれることがないことが。
あの風に乗るような刀さばきを見ることができないことが。
もう二度と綺麗な赤い目が、揃って俺を映すことがないことが。
ただひたすらに悲しくて、俺は泣いた。
それなのに、俺はまた『やっちゃった』んだ……。
青ちゃんは順調に回復していった。
俺の足はもう、腫れも痛みもほとんどない。
向日葵色の上着もきさらが洗ってくれて、今はまた俺の体を覆っている。ただ前よりも、その向日葵色がくすんだような気がするのが少し寂しい。
小屋で寝ている青ちゃんを邪魔しないよう、表の杉の木の下に座ってぼんやりしていると、遠くで雨の匂いがして、俺は空を見上げた。
すると、もたれていた木の上から、玖音がひょっこり顔を出した。
「何よ、冴えない顔して。元気だしなさいよ。あいつも助かったんだし。その……こ、こっちまで暗くなるでしょ!」
「玖音……」
木から飛び降り近くに座った玖音を、俺は両手で押して遠ざける。
「あのね、あんまりね、おれに近づかない方がいいよ」
あの時の俺は、玖音のことも消そうとしていた。
「おれ、玖音にひどいことしちゃうかもしれないから」
すると、玖音のいつもは赤い顔が、なんだか青冷めたように見えた。
泣きそうにも見えるその顔に、そんな顔をさせたいわけじゃなかったから、俺はどうしたらいいか分からなくなる。
「あ、あたしに指図しないでよね! あたしは、あたしがここにいたくて、ここにいるんだからっ!」
何も言えないでいた俺に、玖音がいつもの調子で言い返して来た。
「玖音は強いね」
こんな俺の傍にいたいって思えるなんて。
今、青ちゃんがあんなんで、俺がまた『アレ』になったら、止めてくれる人なんていないのに。
ジジ様なら『アレ』を殺してくれるかもしれないけれど。
このままだと俺はきっと殺される。
それは盗賊にでも盗賊狩りにでも、羅刹にでもなくて。
誰よりもまず真っ先に、俺は『俺』に殺される。
そして俺を殺した俺は、今度は青ちゃんたちを殺そうとするだろう。
俺は怖いっていうのがよく分からない。
俺は俺が殺されるのは怖くない。
だから、俺を殺そうとする盗賊も、盗賊狩りも、羅刹のことだって怖くはない。
だけど俺は、青ちゃんやきさら、玖音が殺されるのはすごく怖い。
青ちゃんたちがいなくなるのがすごく怖い。
胸の真ん中辺りを、氷の刃で抉られるような、痛いような寒いような苦しさに襲われる。
たぶん、これが怖いっていうヤツだと思う。
俺は青ちゃんに出会ってから、きさらやジジ様と会って、そうしたら玖音と会って、竹千代にも会って……。それがすごく楽しいってことを知ってしまったから、もう一人ぼっちには戻れる自信がない。
俺は顎を深く引いて俯いてしまっている玖音に、今度はちょこっとにじり寄った。
「玖音、おれね、もっと強くなりたいな」
すると、玖音がいつもみたいに頬を少し赤くする。
「……あんたなら、きっとなれるわよ」
うん、強くなりたい。
もう、『アレ』に好きなようにはさせない。
もう少し、みんなの傍にいたいんだ。
突然、嗄れた鳴き声がして見上げると、一羽の烏が杉の木から飛び立つところだった。真っ黒な羽が一本、ゆっくり俺の目の前に舞い落ちてくる。
無意識にそれを手に取った。
「どうかした?」
羽を眺める俺に、玖音が俺を覗き込む。
「ううん。なんでもない」
そう、何でもない。ただ、なんだか嫌な感じだった。
季節が雨を呼ぶ頃になると、青ちゃんの腹からも糸が抜かれ、また普通に起き上がれるように回復していた。
俺は青ちゃんと、半分戸を閉じられた縁側でごろごろしていた。
きさらは竹千代と町へ行ってしまって、今はいない。俺も行きたかったけど、青ちゃんが面倒くさそうに小屋に残ったから、俺も小屋に残ることにした。
つまんない。
雨が木々の葉を叩く音がする。憂鬱な俺の気持ちとは逆に、雨を受ける山の木は生き生きとしているみたいだった。
戸の隙間から表を見回していると、こちらへと向かってくる人影を見つけた。
「青ちゃん、誰か来た」
誰だろう。
この小屋にヒトがやってくるなんて滅多にない。しかも、こんな雨の中。
でも、近づいてくるその男の、小屋の軒下で笠を取った姿は更に珍しいものだった。
ちょんまげのおっちゃん武士だった。身なりもしっかりと整えられて、乱れたところが一つもない。賽ノ地で、こんなにちゃんとした格好をしたヒトは珍しい。
この小屋は元々、ジジ様ときさらの家だから、どっちかに会いに来たんだろうけど、ジジ様は囲炉裏端で灰をいじくりながら、土間の方を見ようともしない。
「何の用スか?」
仕方なくというように訊いた青ちゃんに、ちょんまげ武士は答える。
「拙者は、浅葱鷺之丞と申す者。奇妙斎殿はいらっしゃるか」
そんなヤツいない。
……と思ったけど、そういえばジジ様の名前がそんなんだった。
「ジジ様、お客さんだよ」
俺は言ったけど、ジジ様は相変わらず囲炉裏の灰をいじっているだけ。
「すんません、勝手に上がってください」
青ちゃんの言葉に、
「失礼する」
礼儀正しくちょんまげ武士は目礼し、ジジ様のいる囲炉裏の傍へ上がりこむ。
囲炉裏の灰から視線を上げたジジ様は、ちょんまげ武士を見て火かき棒を放り出す。
「おい。青、デコ」
「なんスか」
「どっか行っとけ。邪魔だ」
犬猫でも追い払うように、しっしと手を振るジジ様。
どっかって……。外はまだ雨なのに。
青ちゃんも気乗りしないようだったけど、軒下に吊るされていた、赤い着物を手に取り小屋を出る。
「行くぞ、でこぱち」
青ちゃんの呼ぶ声に、俺は喜んで青ちゃんの背中を追いかけた。