第十二話
外がうるさい。
夕方に急に降り出した雨がバタバタと派手に道場の屋根を叩いている。でもそれより気になるのは、雨の音に混じった烏の鳴き声。こんな日に、こんなに鳴く烏の声なんて今まで聞いたことがない。
青ちゃんが道場の扉を明けると、その音が一層大きくなる。開いた扉に、烏はさらに声を張り上げたみたいだった。扉の向こうは真っ暗で、声がするのにそいつらの姿は見えない。
俺は外の様子に取られた気を、手元の竹刀へと戻した。
切っ先が垂れないよう頭の上に振りかぶり、振り下ろす。このときも勢いで剣先が下がらないよう、へその前で水平に止めること。これが立待から言いつけられた稽古のひとつ。
初めは勢い余って床を叩いた竹刀は、もう意識しなくてもへそ前でまっすぐに止まる。これをもうあと二千回。
もうどこまで数えたか忘れちゃったけど、なら今からまたあと二千振ればいい。
正直言って、つまんない。
青ちゃんと二人でやりあって、互いの力を思い切りぶつけ合っての練習の方が、やっぱり楽しくて好きだ。でも立待が、これをちゃんと身につけたなら、もっと強くなれるって言ったから。
俺は強くなりたい。もう二度と、羅刹になんか負けないように。
やっぱり……とは思っていたけど、夜になっても青ちゃんが、きさらたちのいる小屋へと戻る気配はなかった。
ますます強くなる雨。その音はかなり激しくて竹千代が怖がりそうな気がしたけど、竹千代のそばには今、きさらがいるから平気だろう。
青ちゃんは道場の隅っこにごろりと横になっていた。ちょっとだけ離れて俺も寝転がる。
俺と青ちゃんしかいない道場は広い。目の前に広がる天井も高い。床はひんやり冷たくて、吸い込む空気はどこかぴりりと硬かった。
ジジ様の煙管はときどき煙たく思うけど、今はあの煙の匂いが懐かしい。あの小屋はとても狭くて小さいけれど、あったかくって心地が良かった。
「ねえ、青ちゃん」
青ちゃんのマネをして黙っていた俺だけど、青ちゃんから話して来る気はまったくもってなさそうだ。やっぱり俺には我慢できない。
向こうを向いた青ちゃんの名を俺は呼ぶ。眠ってしまった気配はないのに、返事は返って来なかった。
外の雨は相変わらず酷い。俺の声は聞こえなかったのかな。
「青ちゃん。青ちゃんはもうきさらとジジ様のところに戻らないの?」
青ちゃんに近づいて、もう一度聞いてみた。さすがに聞こえなかったってことはないだろう。なのに返事がないってことは、返事はしないってことだ。
……意味が分かんないよ。
俺には確かにジジ様が言っていたことも、青ちゃんが考えている難しいことも、理解できてはいないけど、知ってることもあるんだよ。
俺はきさらたちのいるあの小屋が大好きだけど、青ちゃんだって、あの場所が好きだってこと。
きさらがおかえりって言ってくれた時、青ちゃんも本当はすごく嬉しいんだってこと。
俺がふらふらどこかにはぐれて行ったとき、青ちゃんは待っててなんてくれないけれど、俺が本当に見つけられなくなるような所へまでは、行かないでいてくれてたことだって、俺はちゃんと分かってる。
青ちゃんが話してくれなくたって分かってる。
今だって、俺をわざわざ傷つける。そうすることできっと、これから先にやって来る、もっと大きな何かを避けることができるんだろう。いつだって青ちゃんは先の先を考えるから。
分かってる。
「あおちゃん……」
分かっていても俺は傷つく。
分かっているくせに傷つくんだ。
水の中ででんぐり返しした後みたいに、鼻の奥がつんとしてくる。これから先にいったい何が起こるかなんて、俺にはさっぱり分からない。
そんな先のことよりも、今この瞬間このときに、すぐ目の前の青ちゃんがこっちを向いてくれないことのが俺には、すごくすごく辛いんだ。
ねえ青ちゃん。俺がもっと強ければ、青ちゃんは心配しなくてすむのかな。
それとも俺がいなければ――
そのとき青ちゃんが体を起こして、俺は道場の外の気配に気がついた。使い慣れない頭を使いすぎると感覚の方が鈍くなる。
外の気配は明らかに俺たちに向かって近づいてきていた。どかどかと雑な足音複数。分かりやすいぐらいにだだ漏れの敵意と、雨の匂いに混ざった嗅ぎ覚えのある獣の匂い。言い合いをするうるさい声にも覚えがある。
ぼやけている目元を腕でぬぐって、背中の刀に手を伸ばした。とたんに、どでかい音と共に道場の扉が粉々に壊される。
あーあ、それ怒られるよ。馬鹿狐。
砕けた扉の破片の向こうに見えた大槌に俺は思った。
「一番乗りぃ!」
「おい待て、壊したのは俺だ!」
「どうでもいい。黙るという事を知らんのか貴様ら」
ほら、やっぱり。あの時に殺っちゃっておけば良かったのに。
眉間に深く皺を刻んだ女の顔には見覚えがある。前に青ちゃんに倒された、しつこそうな盗賊狩りの女。それに赤い狐と緑の狸。
雨の雫が垂れる槍を手に、女が青ちゃんを見る。
「この日を待ちわびたぞ、盗賊」
「俺は待ってねぇよ、盗賊狩り」
「抜かせ」
槍先の輪がしゃんと鳴る音と共に道場の床に水が跳ねる。壊れた扉の破片といい、後始末が大変そうだ。
三人寄ればなんたらかんたらって聞いたことがあるけれど、こいつら三人いても馬鹿らしい。
「何事だ」
ちょんまげ武士の声とこちらへ駆けて来る足音がして、青ちゃんがくるりと身を翻した。扉とは逆の壁、床の傍の細い戸から青ちゃんが素早く外へ出る。
「逃げる気か?!」
追いかけてきた奴らに向かって、俺は壊れた扉の破片の大きなひとつを投げつけた。
「いってぇ!」
破片が顔のど真ん中にびたんと命中した緋狐は、両手で高い鼻先を押さえる。
ばーか。扉を壊したお前が悪い。
一瞬足が止まった盗賊狩りに背を向けて、俺は青ちゃんを追って外へ出た。
目の前を白い糸のように落ちる雨。白い糸は太く細く何本にも重なるように降り続き、まるで幕のように行く手をさえぎる。それでも俺の目はその中に、あの赤と青を見逃さなかった。
道場の塀も周りを過ぎて行く草木の影も、俺の目には入ってこない。ただただその二つの色だけ追いかける。
全てを置いてきぼりにでもするかのような速さで先を行くそれが、ふと立ち止まったのは、その奥につつじの花の色が見えたときだった。
「お待ちしておりました。さあ、参りましょう」
居待が唐傘を手にそこにいた。俺たちと同じにあの場所から出てきたのだとしたら、先に待ってるなんてできるのか。居待の着物は相変わらずひらひらとして、雨に濡れた様子もない。
そんな居待を前に青ちゃんが警戒しているのが、その背から見てとれた。
「稽古にいらしたのは貴方でしょう? 道半ば放り出すのは信条に反しませんこと?」
今日一日で道場を飛び出してきたことを怒ってるのかな。居待から感じる殺気は、そんな生易しいものではないけれど。
「……何故俺たちについてくる」
俺とは話そうとしない青ちゃんが居待に問いかける声がした。
「ですから、私が稽古をつけて差し上げる為だと申しております」
どうやら居待は道場から抜け出してきた俺たちに、まだ稽古をつけるつもりらしい。俺たちは政府に仕えるつもりなんてないのに。
「俺たちは政府の敵だ。お前の親父は江戸仕えだろう」
「あら、敵か味方かは問題ございません。私は貴方の先達になりますのよ」
「はぁ?」
乱暴に聞き返した青ちゃんに、居待は揃えた細い指先を横に振る。それはまるで俺たちの首を切り落とすかのような仕草だった。
「何しろ、その首には既に逃れ得ぬ頑丈なくびきに括られておりますから」
括られていると言われた首元が、なぜだか本当に息苦しいような気がした。
俺たちはいつだって自由だったはずだ。野山を吹きすぎる風みたく。木から木へと飛び渡る鳥みたいに。
いったい何が俺たちを縛っているっていうんだろう。
「急ぎませんと、彼らに追いつかれてしまいますよ? 盗賊狩りの、ケモノたちに」
「……」
青ちゃんが迷っている。
「どこへ向かう気だ?」
「東山へ」
居待の口から出た行き先には、俺も戸惑った。
危険なのは場所そのものではなく羅刹たちだけど、その羅刹とついこの前そこで戦ったばっかりなのに。
「政府から身を隠すには、この上ない場所だと思いません?」
「逆だと思うが」
「政府は青殿が思うより羅刹族を怖れております。次の羅刹検分まであと半月、無意味な被害を出さぬ為に賽ノ地町奉行所は東山周辺からほとんどの隠密を引き揚げさせることでしょう。それより何より、羅刹が現れる場所でヒト同士とはいえ、諍いを起こしたくないのも事実。もしここまで追ってくるとしたら、そうですね、あの烏組くらいでしょう」
「まるで見聞きしたような言い方だな」
「青殿、余計な事は知らぬが花ですよ」
口元に笑みを浮かべる居待に、青ちゃんはまだ何かを考えているようだったが、やがて居待と並んで駆け出した。
政府の中でも、烏組の奴らしか追ってはこないだろうという東山へと向かうことにしたらしい。
雨の中、あのひらひらした着物で駆ける居待は速かった。ちょんまげ武士の子供ってことは、居待はかなり稽古を積んできたのか。それなら、本当に稽古を続ければ俺ももっと速くなれるのかもしれない。
居待がこれからつけるという稽古がどんなものかも考えず、俺は前を行く二人について行った。