第十話
雨がだいぶ小降りになってきた頃、俺たちは小屋へと戻って来た。ちょんまげ武士の笠はまだ、小屋を出たときとおんなじに軒下に置いてある。まだジジ様と話しているらしい。
そのとき突然、青ちゃんが俺に刀を向けた。
「でこぱち、久々にやるか」
久しぶりに聞いた青ちゃんからの『遊び』の誘いだった。
傷はもう大丈夫なのかな。それがちょっとだけ心配だけど――
「いいよ!」
うずうずしてきた俺の手はもう、背中の刀に伸びていた。
小屋の縁側の前は『遊ぶ』にはもってこいの開けた場所がある。そこで俺たちは一旦、距離を開けて向かい合った。
雨がまだ小さく顔を叩くのがくすぐったい。
俺は強い青ちゃんが、俺と遊んでくれるのが嬉しくって仕方ない。
この前、羅刹にはこてんぱんにやられちゃったけど、青ちゃんに会うまでの俺には、俺とこうやって向き合える奴なんていなかったから。だから、青ちゃんとこうやって遊べるのが、俺はすごくすごく嬉しいんだ。
ジジ様がちゃんと教えてくれないから、俺たちはこうやってお互いの腕を磨いている。遠慮なんかしないよ。だって青ちゃんは強い。
青ちゃんの戦い方が俺は好き。
相手の動きを読むように躱して受けて流して薙いで。片方になってしまった腕一つでも、一対一で青ちゃんに敵うヤツなんて、そういない。
それに青ちゃんは頭がいい。
そのとき、そのときで、一番いい方法を考えて戦える。それは場所だったり相手の強さだったり周りの状況だったり。
俺は相手と向き合うとそんなもの、頭からぽんとスッとんでっちゃうから、どんな状況でもちゃんと考えることができる青ちゃんの頭って、どうなってんのか、すごく不思議。
今ももう、俺は青ちゃんに飛びかかりたい衝動を押さえられない。
「いくよ、青ちゃん!」
ぬかるむ地面を泥を飛ばしながら蹴り上げて、俺は大きく振りかぶった刀を、青ちゃんに向かって振り下ろす。
とたんに鋼がぶつかり合う鋭い音。
ジンと小さく痺れる手。
青ちゃんは避ける事なく左手一本で、俺の刀を迎え撃ったのだ。
さすが。
思わず顔がにやけると、青ちゃんもにやりと笑みを見せた。
青ちゃんは俺より長い手足で、俺の間合いにすぐに入り込む。だから俺はそれより早く、自分から青ちゃんの間合いに入り込まなきゃいけない。
頭から振り下ろした刀の勢いを殺さぬように、そのまま青ちゃんの横に回りこもうとすると、まるでそれを狙っていたかのように青ちゃんの足が振るわれた。
「うっ……わ……!」
なんとか避けたけど、その足先は俺の腹を掠めた。
あっぶな……。
勢いを削がれて俺は、青ちゃんの間合いに入らぬように一度、青ちゃんから離れた。
よし、ここからもう一度――。
思って構えた俺だったけど、こちらをじっと見ている視線がある。
面白がるような、品定めしているかのようなその視線。
「……何か用なの?」
俺は小屋の前に立っているそいつに向かって言った。せっかくの『遊び』を邪魔されたみたいで気分が悪い。
「いや、よい腕だ」
ジジ様に会いに来たちょんまげ武士だ。
軒下に置いてあった笠を被り、こっちにするりと近づいてくる。
「ただ惜しい哉、剣術の基礎が足りておらぬようだ。主らはまだ、強くなる」
「ほんと?」
それって、あの羅刹たちにも勝てるってことかな。
俺はもっと強くなりたい。
もう羅刹にも『アレ』にも負けたくない。
「どうやったら強くなれるの?」
「基礎を学び直す事だ。奇妙斎殿から教わってもよいと思うのだが……」
きそ?
そんなもの学び直すも何も、初めから教わったことなんてない。
きみょうさい?
………………ああ、ジジ様の名前だっけ。
「ご助力差し上げよう。出稽古は常に歓迎しておる。気が向いたら、立ち寄るといい」
ちょんまげ武士はその場で紙に何か描いて青ちゃんに渡すと、静かな足取りで来た道を戻っていった。
俺は青ちゃんが手にした紙を覗き込もうと爪先立つが見えない。青ちゃんはそれを持って縁側に行くと、床に広げて張り付けた。雨で滲んでよく分からないけど地図みたい。
「何の地図だろ?」
「出稽古っつってたからな、道場か何かまでの地図なんじゃないか?」
そこに行けば強くなれるのか。
じゃあ、早く乾いてくれなくちゃ。
滲んだ地図はだんだん読めなくなっていっているみたいで、ちょっと焦る。
俺は縁側に四つんばいになって、床にぺしゃりと張り付いている紙に息を吹きかけた。
早く乾け。早く乾け。
するとなぜか青ちゃんの手が俺のでこをぐりぐり押してきた。
えー? なあに? 今度は相撲でもするの?
そのまま、でこで押し返したら、思いの他、強い力で更に返された。
むう……首が痛い。
床についていた両手両足を踏ん張って、でこを押す青ちゃんの手を強く押し返すと、ふいに青ちゃんが手を引いて、勢い余った俺は向こう側へ派手に転がった。濡れた着物の背がべしゃりと床を打つ。
仰向けに転がった俺の目に入った青ちゃんは、にやりと小さく笑っていて、俺はそんな青ちゃんに仕返ししようと飛びかかった。
「青ちゃん! ハチ! 縁側で何やってるの!」
聞き慣れたお説教風のきさらの声に、俺と青ちゃんの体が固まったのは、その後しばらく取っ組み合った後だった。
町まで竹千代と出掛けていたはずだったのに、いつの間にか帰ってきたらしい。
俺は青ちゃんに床に顔をねじ伏せられ、俺はそんな青ちゃんに蹴りを入れていたんだけど、雨で濡れた体で転げまわったせいか、縁側はびしょびしょのどろどろ。
仁王立ちで俺たちを見下ろすきさらの目が怖い……。
きさらと手を繋いだ竹千代までもが、呆れたように俺たちを見ている。
「今すぐきれいにして」
床を指差し言われた言葉に、俺と青ちゃんはすごすごと雑巾を手にして、汚した縁側を綺麗にしなくちゃならなくなった。
◆◆◆◆◆
辺りが真っ暗になっても、相変わらず雨は降っていた。
綺麗になった縁側とは逆に、更に汚れた俺と青ちゃんは裏で水を浴びた。そうしないときさらが部屋に入れてくれないから。
髪の中まで入り込んだ泥も洗ってぼさぼさの髪を、青ちゃんが拭いてくれるのが心地いい。囲炉裏端を見れば竹千代が地図を火に翳しひらひらさせていた。
なるほど。そっちの方が早く乾きそうだ。
囲炉裏端でジジ様が吹かす煙草の匂いの傍に、俺たちは座る。
「湯冷めしないようにね」
「はぁい」
囲炉裏で揺れる赤い炎が暖かい。
腹の底まで解されるようなぬくぬくとした気持ちになる。野宿となるとこうはいかない。
青ちゃんの怪我は治ったのだから、もう、きさらのいるこの小屋にいなくてもいいのかもしれないけれど、できればまだこうやって、みんなでご飯を食べたり、みんなでしゃべったりしていられたらいいのにと思う。
とんとん。ジジ様の煙管が囲炉裏端を叩いて、俺は炎を見ていた顔を上げた。
「おい、青、デコ。話がある。きさらはガキ連れて奥行っとけぃ」
突然言ったジジ様に、きさらは不思議そうな顔をしていたが、竹千代の手を引いて奥の部屋へと行ってしまった。
囲炉裏の周りにはジジ様と青ちゃんと俺の三人。
話があると言ったくせにジジ様は煙管を咥えていて、なかなか口を開かない。
青ちゃんも何も言わないから、部屋の中はシンとしている。
……静かだ。
「ジジ様、話って何?」
「急くな、デコ」
思わず訊いた俺のでこに、じゅっと何かが飛んできた。
「熱っちー! 熱い! 熱い!」
ジジ様の弾いた煙管の灰だ。
俺が慌てて冷たい床にでこを擦り付けていると、やっとジジ様が話を始めた。
それはまだ、ジジ様がまだジジ様じゃなくって若かった頃の話で、当たり前だけどジジ様にもそういう頃があったんだな、なんてことを俺はぼんやり思っていた。
「……お耳?」
「ああ、そうだ」
終わったジジ様の話に青ちゃんが眉間に小さく皺を寄せる。
ジジ様は前は賽ノ地じゃなく、もっと中央、つまり江戸に住んでいたらしい。その頃のジジ様は名前を知らない奴がいないくらい強くって、人を斬るのが仕事だったとか。
だからその強いジジ様は、江戸の偉い人たちのため、中央政府の隠密として働いていたって話。その隠密を『お耳』と呼ぶんだと。
まあ、ジジ様がその辺の爺ちゃんとは違うってことぐらい、俺にも分かるけど。渋い顔をした青ちゃんは、まだ何か気になることがあるらしい。
「何で今頃、そんな話を俺たちにするんスか?」
「先ほど、髷結った男が来とったろう。あやつは江戸政府のつながりのモンでな。儂に今さら復帰を請うてきおった」
「え、じゃあジジ様、また働くの?」
「阿呆抜かせ」
訊いた俺に、またもジジ様は煙管の灰を飛ばしてきたが、同じ手を二度も食うもんか。俺はそれを余裕でひょいとかわす。
へっへ。どんなもんだい。
「デコは気づいとらんだろうが、青、お前はこのところの賽ノ地の動きに感づいとるはずだ。ここは近いうち、政府にとっても羅刹たちにとっても重要な拠点となる。ますます荒れるだろう」
ジジ様は青ちゃんに向かって言った。青ちゃんは黙っているけれど、やっぱり何か気づいているんだろうか。
羅刹のお城が賽ノ地に建つ。それは賽ノ地に住んでいる人たちにとって、とっても危ないんじゃないかって俺は思うんだけど、それと江戸政府がどう関係あるのかまでは、よく分かんない。
「だが、儂ももういい加減、隠居したい。羅刹族が相手となると、か弱いジジィが出る幕じゃなかろう。それも、受けるなら一度江戸へ来いというお達しだ。この老体には江戸までの道のりはきつくてのぅ」
ええ? か弱いジジィって誰のこと。何がきついの。
言おうとしたけど、今度は灰じゃないもんが飛んできそうで俺は口をすぼめた。
「だから代わりにお前ら、行って来い」
「……はぁ?」
青ちゃんの口から間抜けな声が出る。
「お前ら、政府の側について、世のため人のために働いて来い」
世のため人のためって……政府は別に俺たちになんにもしてくれないけど。
「聞いた話によると、盗賊を狩ってるのは賽ノ地の町奉行所のお達し……盗賊の俺たちが政府の隠密ってのは筋が通らねぇと思うんスけど」
「その辺は政府の方にも細けぇ事情があんだろ。お前の関知する処じゃぁない」
どうするんだろう。
俺は青ちゃんの答えを待つ。
「面倒だから嫌です」
「青ちゃんが嫌なら、おれも嫌だ」
青ちゃんの答えは青ちゃんらしいもので、俺はちょっとだけほっとした。
だけど、
「……怖いのか?」
ジジ様が言った言葉に、青ちゃんが息を呑んだのが分かった。
怖い? 青ちゃんが何を怖がっていると言うんだろう。
青ちゃんは今度は答えなかった。
「まあ、いい。気が変わったらまた来い」
ジジ様は一度長く煙を吐くと、話しは終わりだと言うようにまた煙管を咥えた。
雨は相変わらず降っている。
月はない。笠もない。だけど青ちゃんは小屋を出た。
俺に何も声を掛けずに。
俺は履物を引っ掛けるようにして追いかける。
「ついてくんな」
こっちを見もしない青ちゃんに言われて足を止めたが、青ちゃんは止まらず行ってしまう。青ちゃんがいったい何を考えているのか分からない。
闇夜の中に溶けていく赤い着物に、今それを見失ったらもう二度と、青ちゃんを見つけられない気がして追いかけた。再び色を取り戻した赤い背が、話しかけるなと言っている様で、俺はそれ以上近づくのを止める。
青ちゃんは俺が追いかけてきているのに気づいているはずなのに、振り返ることはなかった。
夜が更けてもまだ降り続ける雨の中、荒れ地の杉の木の下で俺は青ちゃんに追いついた。というのも、青ちゃんがそこで横になっていたからだ。
俺は青ちゃんの隣に寝転んで空を見上げた。
枝に干すようにかけられた青ちゃんの赤い着物が揺れている。その向こうに見える空は真っ黒だ。明日は晴れるだろうか。
久々に青い空が見たいと思った。
隣の気配がなくなって、目を開くと朝だった。
雨は止んでいたけれど、残念なことにどんより雲が空を覆っていて、その向こうにあるはずの青は見えない。
顔を巡らせると、まだそんなに離れていないところに、青ちゃんの姿を見つけて俺は体を起こした。お日様の姿が見えないせいで、今がどのぐらいの時間なのか分からないけど、まだ眠い。でもぐずぐずしていたら、青ちゃんがどこかへ行ってしまう。
重たい瞼を擦って、俺はまた青ちゃんの後ろを歩き始めた。
いつもなら――例えば面白そうな見世物がやっていて、それに気を取られてはぐれても、すぐに青ちゃんを見つけ出せるけど。なんだか今の青ちゃんは、俺が見つけられないところに一人で行ってしまいそうで。俺には見つけられないんじゃないかって思っちゃって、それが不安だった。
俺は青ちゃんになりたかった。
頭が良くて強くって。なんだかんだで優しくて。
俺も青ちゃんになれたらいいのにって、何度も何度も考えた。
『アレ』の囁きが聞える。『欲しければ奪えばいい』と。
でも違った。俺が青ちゃんになったらもう、俺は青ちゃんの隣にいられない。
俺がなりたかったのは青ちゃんじゃない。俺が欲しかったのは青ちゃんの右腕でも右目でもなかった。
俺が欲しかったのは青ちゃんの隣。
俺もこうなりたいと思う青ちゃんを、すぐ傍で見ていられるその隣に、ずっといられるぐらい強い自分が欲しかったんだ。
青ちゃんが何も言わないのは、きっと俺が頼りないから。
今は隣じゃなくてもいい。それでも俺の名前を呼んでくれるなら、俺はすぐに飛んでいくから。
だから青ちゃん。消えないで。
俺きっと、もっともっと強くなってみせるから。