第九話
青ちゃんが怪我をしてから、小屋を離れたことはなかった。最近はもうずっと、きさらやジジ様、 竹千代が傍にいて、これからもずっとそうあるような気になっていたけど、俺たちはもともと盗賊だ。そのうち、また前みたいな生活に戻るのだろうか。
まだ雨粒が細かく顔に触れる中を歩く青ちゃんの、後ろを俺はついて行く。
「静かだね、青ちゃん」
「そうだな」
そこはいつも、俺たちが他の盗賊たちとやり合っている荒地だったが、辺りを見回しても誰一人現れない。
俺たちみたいに盗賊狩りの奴らに追いかけられて、みんな殺られちゃったんだろうか。それとも、羅刹に襲われたのかな。
静かに漂っていた雨粒が、やがて地面を打つ音を立て始めた。てっぺんで結んでいる俺の髪もべちゃりとうな垂れ、溜まった水滴が顔を伝い首元へ流れ落ちる。それが気持ち悪いせいか、なんだか腹の辺りがもやもやとする。
青ちゃん。俺たち、前みたいな生活に戻れるのかな。
訊こうとしたとき、強くなってきた雨に足を止めていた青ちゃんが、また足を進めだし、その向かっている方向に思い当たった俺は、すぐに気を取り直しその背を追いかけた。
いつもは賑やかで楽しい町は、雨のせいなのか、いつもより静かで、なんだかちょっぴりつまらなかった。
町の人も笠を被っているせいか、いつもはじろじろと見てくる俺たちの姿にも、対して目を留めずに早足で通り過ぎる。
やっぱり。青ちゃんの向かう先にあるのは風月庵。それに気づいただけで俺は、あの団子の味を思い出し口元が緩んでしまう。
見えた店先に、団子屋の息子なのに岡っ引きの雷の姿があって、俺にはそれも嬉しいことだった。
「よぉっ、耶八! 遊びに来いって言ったのに、なかなか来なかったじゃねぇか。何してたんだよ」
「んーとね、羅刹たちと戦って、大怪我して、休んでた」
「はぁ?!」
でも治った。俺の足も、青ちゃんの腹も。
「おい、耶八。何だその羅刹がどうのってどういうこった?」
「きさらを探して山に入ったら羅刹がいてさ、いきなり襲われたんだ。一生懸命戦ったんだけどあいつら、びっくりするくらい強くってさぁ」
「ん? ちょっと待て、意味分かんねぇんだけど。何? 山に入って羅刹がいたって? きさらって?」
ええと、あの日は河原に羅刹が集まってて、きさらがなかなか帰ってこなくて、探しに行く途中であった玖音は仕事中で――
「んー、おれも実はよくわかんないんだ!」
「何だそれ」
「でも今はもう元気だよ! 青ちゃんも元気になったしね!」
「ん? ならどうでもいいか」
うん。それより、早く団子を食べさせて。
俺の視線が盆の上の団子に釘付けになっているのに気づいたのか、一本差し出してくれた雷の手から、いきなり団子にかぶりつく。
「おいおい。串くらい自分で持って食え」
呆れたように笑う雷から団子を受け取る。久しぶりに食べた風月庵の団子はやっぱり美味かった。
「おれ、盗賊になってなかったら、団子屋になっても良かったなぁ」
「耶八、お前、盗賊なんてやめろ。俺は岡っ引きだからな。盗賊は捕まえなきゃなんねぇ」
「雷はやっぱり団子屋にはならないの?」
「おう。俺は景元様にお使えするって心に決めてるからな。そして、ゆくゆくは景元様のような立派な男になるんでぃ!」
「かげもとさま?」
「ああ、近松景元この町のお奉行様だぞ。お前、お名前くらいちゃんと覚えとけ?」
俺はその『かげもとさま』がどんな立派な奴なのか分かんないから、やっぱり団子屋の方がいいと思うけど、俺も青ちゃんみたいになりたいと何度も思ったことがあるから、たぶんその『かげもとさま』は、雷が大好きな奴なんだろう。
雷が好きな奴なら、いい奴なのかなぁ。
口に頬張った団子を、熱くて香ばしい茶で飲み下すと、獣の匂いがして振り向いた。
そこにいたのは
「あ、朋香さん。景元さまは? 一緒じゃないんですか?」
あの日、俺たちを助けてくれたあやかしがそこにいた。けれど、今日はしっぽも耳もみえていない。大槌を振り回すあの狐や、俺の団子を食っちゃった狸よりも化けるのが上手みたいだ。
「ごめんなさいね、今日は私一人なの。景元様なら今頃、奉行所に籠りきりよ」
「そうなんですか」
雷がしょぼんとしたように見える。
分かる分かる。好きな奴に会えないのって、がっかりする。
「景元様が今、賽ノ地の為にどれだけ心を砕いているか、貴方にも理解出来ない筈はないでしょう? この地にもたらされる脅威がどれ程のものか、理解できない筈はないでしょう? あの和平によってこの地に下された処遇が如何に理不尽なものか、理解できない筈はないでしょう」
あやかしの朋香は青ちゃんとの話の途中だったようだ。朋香が言っていることは、その言葉も内容も難しくって、俺は首を傾げる。
「『脅威』って、羅刹たちのこと? おれ、あんなにたくさんの羅刹を見たの初めてだったよ。和平とかそういうのはよくわかんないけど、これからああやって羅刹がおれたちの近くに来るようになるってことなの?」
俺が訊いた言葉に、朋香の細い切れ長の目が驚きに少し大きくなる。
「……貴方達、知らなかったのね。だからあの時、あんな場所に」
「玖音も同じこと言ってたな」
青ちゃんが言って、あの日の玖音を思い出す。俺たちがあの先に行こうとするのを必死で止めようとしていた。そんなに何か大事な日だったんだろうか。
「あの日は確か夕刻に賽ノ河原で政府の人間と羅刹たちが話しているのを見た。羅刹たちが東山を通って帰る事は分かっていたから、きさらを迎えに行った。それだけだ」
「もしかして『羅刹検分』の日の事か? お前、奉行所からのお達しを聞いてなかったのかよ?! 景元さまからのお言葉だぞ?! 聞けよ!」
朋香に向かって言う青ちゃんの横から口を挟んだ雷は、その口に団子を突っ込まれる。変な顔になっている雷が可笑しくて俺は笑いそうになるが、青ちゃんは険しい顔で朋香と話を続けているから、我慢する。
「どういう意味だ?」
「あの日は賽ノ地に最も近接した地域に居留地を構える羅刹の一団が政府との会合に応じる『羅刹検分』があるという御触れが、賽ノ地町奉行所から出ていたのよ。決して賽ノ河原と東山には近づかないように、と。これからきっとこの御触れを出す事が増えるでしょう。また景元様のお心に負担ばかりが郭大するのね」
呟いた朋香は、俺を見ると微笑んだ。優しいようなちょっと寂しいような笑顔だった。
「『和平』という一つ言葉といっても、たくさんの意味があるわ。指折り数えても足りないくらいの決め事が江戸の政府と羅刹の主君の間に交わされた。もちろんその中には、ヒトに危害を加えない、という条項もある。もちろん、その盟約が何処まで守られているか知れないのは、貴方達自身が既に体感したでしょう」
俺にもちょっとだけ分かりやすく言ってくれたんだと思う。
あれ、でも、いっぱいある約束の中に、羅刹がヒトを襲っちゃいけないっていうのがあるんなら、きさらや俺たちを襲っちゃいけなかったんじゃないのかな。ああ、だから朋香が来たときに襲うのをやめたのか……。
「ちょっと待ってくださいよ、朋香さん! じゃあ、耶八とこいつは、羅刹が北倶盧洲の政府共との盟約を破ってヒトに手ぇ出した動かぬ証拠って事じゃ」
口の中の団子がなくなってしゃべりだした雷の口には、すぐに二本目が青ちゃんの手によって突っ込まれた。
さっきよりも面白い顔になっている雷に、朋香は見もしないで難しい話を続ける。
「羅刹との間に交わされた決め事は膨大。中でも大きいのは、ヒトの世に羅刹の拠点を誘致する事を政府が許可した事ね」
「羅刹の拠点……?」
俺にはなんのことかさっぱり分からない。でも青ちゃんを見ればその眉間には深い皺。
「……貴方は敏い子ね。もう粗方の事情は呑み込んだはずよ」
朋香が青ちゃんに言った。
どういうことだろう。今の話で青ちゃんは何か分かったの?
すると、青ちゃんは急に席を立った。
「帰るぞ、でこぱち」
「えっ? あ、うん」
あんまりに急だったから、俺は慌てて食べかけだった団子を口に頬張った。何をそんなに急いでいるのか、まるで何かから逃げ出すみたいな感じに違和感。
ここには何も怖いもんなんてないのに。
「最後に一つだけ知っておいて」
店を一歩、雨の中に出た俺たちに朋香の声が掛けられる。
「賽ノ地の人間は皆、『その事』を知っているわ。それでもこの地で普段と変わらぬ生活を続けているのはひとえに景元様のお力に依るものよ」
何のことなのか分からない俺には、それに答える言葉がなかったが、青ちゃんも何も返さずに歩き出した。その体からピリピリとした空気を感じる。
青ちゃんにも分からなかったのか、それとも分かっていて何も答えなかったのか。
店を出た青ちゃんの足取りは荒く、元々少ない口数はさらに減った。たぶん今、青ちゃんは頭ん中で色んなことを考えている。
こういうとき思うんだ。
俺がもうちょっと頭が良ければよかったのにって。
そうしたら、青ちゃんは一人でいろんなことを考えずに済むのになって。
◆◆◆◆◆
青ちゃんのちょっと後ろをついていきながら、前に雷に追いかけられて逃げた橋まで来た。
今日はあの変なヒゲ親父はいない。もう一度見てみたかったんだけど……。でも、その代わりに誰かが橋の欄干に立っている。唐傘をくるくる回し立つその姿は、細い欄干の上でふらりともしない。
それを見た青ちゃんが、足を止めたのに合わせ俺も立ち止まる。
「お待ちしておりました」
言って振り向いたそいつは、黒い着物に身を包んでいてすごく細っちく見えた。左の下に黒子のある目を細めて笑うその笑顔は、朋香のものと違ってなんだか不愉快だった。
「本日は、ご挨拶にあがりました」
傘をくるくると回しながら欄干から降りたその男に、青ちゃんが警戒しているのが分かる。
「……何者だ」
その雰囲気に俺の右手が背中の刀に伸びる。
「申し遅れました。私は『烏組』頭の烏之介と申します」
「ようやく真打ちの登場ってわけか。次々面倒な相手を差し向けやがって……羅刹を狩る事が出来なくなったら次は盗賊か? 単純な事だな」
ああ、俺たちを襲ってきたあの女や、緋狐と狸休のお頭ってわけか。羅刹狩りだったはずなのに今、俺たちを襲ってるのは、羅刹が狩れなくなっちゃったからなんだろう。
しかし烏之介が言ったのは意外な言葉だった。
「違いますよ」
笑みの浮かんでいる口元を空いた手で広げた扇で隠し続ける。
「私たちが盗賊を狩るのは、これまでと同じ、政府からのご指令です。何しろ近いうち、この賽ノ地には羅刹の城が誘致されるのですから……そのために、貴方達のような盗賊は、邪魔なのですよ」
「えっ?」
羅刹のために俺たちは政府に消されるの? 悪いことをしたからでも、暴れまわっているからでもなく、ただあそこにいるのが邪魔だから? あの荒地があんなに静かだったのは、そのせいなの?
「ですから、今日は御挨拶です。既に部下が何名か御世話になっているようですが……そうそう、今日のこの登場も部下の真似をしてみたんですよ。如何でした?」
「……あのひげ面親父もお前の一味か」
俺たちの周りに、俺たちを狙う奴らがいっぱいいる。
「青ちゃん、今のうちにこいつ、殺っちゃう?」
柄を握った手を少し引く。体が疼く。青ちゃんが一言『殺れ』と言ってくれれば、俺はいつでも飛び出せる――が、ピシリという音が俺たちの緊張感を裂くように響いた。烏之介が扇子を閉じたのだ。
そして女が踊るような仕草でくるりと俺たちに背を向ける。
「また近いうち、お会いしましょう」
「俺はもう会いたくねぇ」
言った青ちゃんにもくすくすと笑うだけで、烏之介はくるくる傘を回しながら去って行く。その後姿はどこか楽しそうだ。
俺は抜きかけていた刀を鞘に戻す。チラと青ちゃんの顔を覗き見ると、口を真一文字に結んで、難しい顔をしていた。
羅刹のお城が建つ。
きさらやジジ様、それに玖音や竹千代がいて、それに風月庵もあるこの賽ノ地が羅刹のものになっちゃうみたいで、それがすごく嫌だった。だって、この前あった羅刹たちは危ない奴らばっかりだったから。
ねえ、青ちゃん。
俺たちもう、前みたいな生活には戻れないのかもしれないね。