7話 記憶の改変
暗闇の中でも昼間とほぼ変わらずに歩けることを、羨ましいと言われた。
高い身体能力を有するため、屋根の上にも簡単に上がれることをすごいと褒められた。
――いいなぁ。あたしは足が速いとは言われるけど、それくらいだもの。
裏表のない笑みに、初めて純粋な人の温かさに触れた気がした。
(「必ず帰って来る」って言ったのに、紗智は能力を発動できなかった)
『あの日』の光景。流れ出す血が腕を伝う感触。冷えていく体温。そのどれも今でもまだはっきりと思い出せる。
周りの仲間は前に進めているのに、自分だけが『あの日』に取り残されたままだった。
太陽はとうに西の山に沈み、今は半分ほど欠けた月が頭上にある。時刻は日付が変わる少し前だ。
都季と話をしてからというもの、どうにも気持ちが落ちつかなかった。納得したい自分と納得したくない自分が混ざって考えがまとまらないということもあるが、『何か』が体の奥で燻っている。
体を動かせば落ち着くだろうかと家を出たのが一時間ほど前だ。
あの事件の後、紗智が能力を発動できなかったのは、依人の能力が関与していると聞かされた。しかし、その証拠となる依人は破綻しており、既にこの世にいない。
通常であれば、特異体質者の巫女か霊媒師に頼めば呼べる可能性はあるが、破綻者の場合は魂さえも消滅してしまう。そのため、特体者でも呼ぶことはできない。
かといって、十二生肖の魂を呼ぶとなると一般人とはわけが違う。呼び出すには相当な霊力を使うため、まず可能な者が現代にはいない。
証拠はもちろん、証拠を実証できる者すらいなかった当時、一夜の疑心暗鬼は募る一方だった。
(更科の言ったことも一理あるし、月神が視せてくれたのも紗智の記憶に違いない)
初めて視せられた、紗智の宝月に残されていたという記憶。月神が手を加えたものでないことは、記憶と共に流れてきた彼女の霊力で分かった。
つまり、あの事件での不幸は局が画策していたものではない。
また、今の局には巫女の子供である都季がいる。まだ本格的に関わってはいないようだが、今後は当時とは違う流れも生まれるだろう。
「今なら、戻ってもいいのかもしれないな……」
何故、局を壊すという意思を持っていたのか自分でも不思議だったが、現状が改善されるのなら戻ってもいいかもしれないと思った。
漸く落ち着きはじめた思考に小さく息を吐けば、ひやりとした風が肌を撫でる。
気候が平年に近い状態になったとはいえ、まだ夜は長袖でなければ肌寒い。コートが不要になっただけまだ良いほうだ。
もう帰るか、と幾分かすっきりした面持ちで踵を返す。そして、視界に入った灰色に心臓が跳ねた。
「やぁ、お兄さん」
「お前、この間の……」
いつの間にか背後にいたのは、先日、都季の住むアパートを教えてきた少年だった。
相変わらず目深に被ったフードで顔は見えず、口元も黒いマスクで覆われている。漂う霊力はただの依人ではないと分かるが、相手の実力を見ていない今、どの組になるのかまでは判断できない。
(継承じゃないな。転生か混血……血統も可能性としてはある)
少年は都季の住所を教えてきただけでなく、局を壊すには都季を使うのが早いと言っていた。警戒するには十分な理由だ。
そこでふと、一夜は自分の中で燻っているものが彼と会ってから現れたのだと気づいた。
(こいつ、何をする気だ?)
自然と手が上着のポケットに触れた。中には武器として使っている折り畳み式のナイフがある。
彼は眉間に皺を寄せる一夜を見て、やや苛立ちの含む声音で言った。
「ねぇ、『何』を視せられたの?」
「……は?」
何を、と聞かれ、ふいに思い浮かんだのは月神から視せられた光景。
あの日の晩にあったやり取りを知るはずの少年は、何故、それを視せられたと知っているのか。
すると、思い返していたその光景がぶれた。いくつものノイズが走り、鮮明さを欠いていく。
不快感に顔を歪ませつつ、彼はここで捕まえて局の前にでも転がしておいたほうがいいと判断し、ナイフを取り出した。周囲に通行人がいないのが救いだろう。
しかし、少年は敵対心を剥き出しにした一夜に慌てる様子も、抵抗のために得物を取り出す様子もなく、ただ呆れたように溜め息を吐いて言った。
「はぁ……。やっぱり、君にはもうちょっと『強め』にしておくんだった」
「どういうことだ?」
何か仕込んでいたような言い方に、やはり、自分の中にある違和感は目の前の少年によるものなのかと合点がいく。ただ、何をかけられたかは分からないが。
すると、少年は忌々しそうに吐き捨てた。
「お兄さんの能力が邪魔をするからだよ」
「俺の能力って……え?」
反射的に脳裏に浮かべようとした自身の能力。出てきて当然のはずのそれは、どうしてか何も思い出せなかった。
(俺の、能力……?)
今まで何を使っていたのだろうか。
当たり前にあったそれが、まったく思い浮かばない。
困惑する一夜に少年が一歩、また一歩と歩み寄る。
「裏支は十二生肖の補佐であり、内偵も行う。君はどう思った? 局は、無駄な労力は使わない。貴重な戦力は温存して、救えるはずのものも早々に見離す」
破綻者は初期なら救えることもある。だが、その確率は低いため、早々に切り捨てているのが現状だ。
裏支は数が少ない上に替えはいない。だから、替えの利く十二生肖が率先して使われる。
「更科都季はそれを“本当に”知ってる? ただ両親が守った場所だから壊されたくないんだろ?」
「アイツが知るはずがない。いくら巫女の末裔って言っても、所詮、今まで温室で暮らしてきたような奴だ」
「なら、現実を知らない人の言葉に納得する理由はないんじゃない? 更科都季も、結局は『局と同じ考え』なんだよ。変えられるはずがない」
「なんでそう言い切れ――……ネズミ?」
足元を掠めた影に視線を落とせば、一匹の黒いネズミがいた。
見上げてくる漆黒の瞳から目が離せない。
月神から視せられた光景が、不鮮明だったものが段々とはっきりしてくる。
紗智が能力を発動しようとした時、それを塞いだのは『依人の力』ではなく、『月神の力』だった。
(な、んだ……? これ……)
聞いていた話と事実が異なっている。
一体、何が真実なのか分からなくなってきた。さらに、未だ脳内では警鐘が鳴っているが、体は動かなかった。
(そもそも、動かし方はどうやる? 俺は今、何をしていた? 大事なことを忘れている気がするけど、大事なことってなんだ? いや、その前に……ここはどこだ?)
「そう。それでいい」
様々な疑問が浮かんでは沈んでいく。
疑問だらけの雑音の海に揉まれる中、少年の声だけがはっきりと聞こえてくる。同時に、押し寄せていた疑問の波が消えた。
「さぁ、もうひと頑張りだよ。『一夜さん』」
「て、めっ……!」
ふわり、とフードが風に煽られて、一瞬だけ顔が見えた。
聞き覚えのある声が誰のものか、思い出そうとすると雑音が混ざっていたのに、今は雑音など跡形もなく消えている。
よく知るその顔と声に一夜は愕然としながらも、彼の能力を防ぐためにナイフを握り締める。だが、そこから動かすことはできなかった。
そもそも、ナイフとはどう使うものだっただろうか? ナイフとは何のことだろうか?
「……?」
「あはっ。『爪研ぎ』は得意なんだよねぇ。ま、君の能力を先に防がないと意味はないんだけど。じゃ、頑張って“復讐”してね」
混乱する一夜に少年がそう言い残して去ると、ふっと体の感覚が戻ってきた。ナイフを持つ手もいつもどおりになっている。
少年の言葉で、戦い方を一時的に消されていたようだ。
「言霊使いだかなんだか知らないが……」
一夜は深く息を吐くと、ナイフを折り畳んでポケットにしまう。
記憶にある月神から視せられた光景に吐き気がした。血生臭いからではなく、強い怒りや憎しみから。
やはり、自分の見解は間違っていなかった。
「『アイツ』なら、壊すのは簡単そうだ」
脳裏に浮かんだ一人の青年の姿に、一夜は不敵な笑みを浮かべた。




