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Side:和葉 2024年4月1日(月)②

 朝のホームルームが終わって、教室の空気がふっと緩んだ。

 椅子がきしむ音、鞄のファスナーの音、誰かの笑い声。


 その全部が、去年より少しだけ遠く感じる。

 ちゃんと、ここにいる。


 午前中は、提出物と連絡事項と、教科書の受け渡しであっという間だった。

 新しいノートの紙の匂いが手に移って、指先が少しざらつく。


 歩ちゃんは配られたプリントを器用に束ねながら、私の方へ顔を寄せて小声で言った。


「先生、今年も同じテンションだね」


「……うん」


 担任の先生は、黒板に連絡事項を書きながら、時々こちらを見て笑う。

 叱るときは叱るけど、頭ごなしじゃない。

 教室の空気が崩れそうになる前に、軽く整えてくれる人だ。


 朱鷺子はその様子を見て、何も言わずにノートを開いている。

 私は窓の外の桜を一度見てから、机の上の名札に視線を戻した。


 二年生の四月一日。

 まだ、慣れない。でも、逃げない。


 ***


 昼休み。

 三人で机を寄せると、いつもの“小さな島”ができる。


「はい、開封の儀!」


 歩ちゃんが弁当箱を置く前からテンションが高い。

 朱鷺子は「食べながら喋ると詰まるわよ」と淡々と釘を刺す。


「始業式の日って、空気だけで疲れない? なんかさ、張りつめてる」


「……疲れます」


 私は頷いて、箸を持つ手に力が入っていることに気づいた。

 緊張は消えたわけじゃない。ただ、息ができる。


「で、今日のメイン」


 歩ちゃんがプリントを指でトントンと叩く。


「午後のホームルームで委員決め。早いよね」


「早めに決めた方が、あとで揉めないからね」


 朱鷺子が淡々と返す。

 歩ちゃんは「さすが委員長向き」と茶化したけど、朱鷺子は流さなかった。


「和葉、何やるの?」


 歩ちゃんが、さらっと聞く。

 からかいじゃない声だった。


 私は箸を止めた。

 委員会って、目立つ。責任がある。

 去年なら、避けたと思う。


 でも今は、避けるより――整えたい。


「……保健、やろうかなって」


「え、いいじゃん!」


 歩ちゃんが目を丸くして、次の瞬間には嬉しそうに笑った。


「向いてるよ。気づくの早いし、無理しないし」


「無茶は……しません」


「それが向いてるって言ってんの!」


 朱鷺子が、箸を置かないまま淡々と付け足す。


「やるなら、続けなさい。途中で放るのが一番面倒だから」


「うん。やるって決めたら、やる」


 言葉にしてみると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。

 私は食べかけの煮物を噛んで、味をちゃんと感じる。


 ***


 午後のホームルーム。

 担任の先生が教卓の前に立って、プリントの束を軽く揃えた。


「よし、委員会決めるぞ。さっさと決めたら、さっさと帰れるぞ」


 教室が少しざわつく。

 先生は笑い混じりに、黒板へ向き直った。


「希望あるやつは言って。重なったら、そのとこだけ話し合い。決まんなかったら――まあ、じゃんけんで」


 チョークの音が淡々と続く。

 書き終えると、先生は振り返って黒板を指した。


「保健委員。……一名な」


 その言葉が聞こえた瞬間、心臓が一回だけ強く鳴った。

 私は息を吸って、手を挙げる。


 ――上げるの、早かったかもしれない。

 でも、下げたくない。


「美作か。了解」


 名前を呼ばれただけで、背筋が勝手に伸びた。


「ほかにいる? ……いないな。じゃ、保健は美作で決まり」


 先生がチョークを置いて、軽く頷く。


「頼むぞ。無理はすんな。困ったら言え」


 その一言が、先生の“面倒見の良さ”をちゃんと残していた。


 決まった瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。

 大げさな達成じゃない。

 でも、去年の自分にはできなかったこと。


 ホームルームが終わる頃には、教室の空気が朝よりずっと柔らかくなっていた。

 鞄を持つ音が一斉にして、みんなが“帰る顔”になる。


 ***


 昇降口へ向かう途中、歩ちゃんが肘で私の腕を小突いた。


「ねえ、和葉。放課後の件、忘れてないよね?」


「忘れてない」


「よし。じゃ、まず――」


「待って」


 朱鷺子が、すっと会話に割り込んだ。

 歩ちゃんは「えー」と不満そうにするけど、朱鷺子は気にしない。


「先に渡す。人が多いところだと、落ち着かないでしょ」


 そう言って、朱鷺子は鞄の中から小さな紙袋を出した。

 白地に、細い紺のリボン。


「……誕生日、おめでとう。使い勝手重視」


 中身を今ここで開けるのは、なんとなく怖くて。

 私は紙袋を両手で受け取って、指先でリボンの硬さを確かめた。


「ありがとう」


「あとで見ればいい。今は、なくさないように」


 朱鷺子らしい。

 その“騒がない優しさ”が、今日の私にはちょうどいい。


「はい、次は私!」


 歩ちゃんが待ってましたと言わんばかりに、別の袋を差し出す。

 中でふわっと甘い匂いがした。


「これ、ちっちゃいけどケーキ。帰ってからでもいいし、どっかで食べてもいいし」


「ありがとう」


 歩ちゃんは一拍置いて、声を少しだけ落とした。


「今年も同じクラスで、うれしい。ほんとに」


 胸の奥がじわっと熱くなる。

 私は言葉を探して、結局いちばん素直なやつを出した。


「……私も。うれしい」


「よし。じゃ寄り道しよ。今日の主役には拒否権なし!」


「あります」


「ない!」


 歩ちゃんが笑って、私の袖を引っ張る。

 朱鷺子は小さく息をついて、でも歩幅を合わせてくれた。


 昇降口の外は、朝より光が強い。

 桜の影が、コンクリートに揺れている。


 私は紙袋を胸の前で抱え直した。

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