Side:和葉 2024年3月14日(木)
朝のHR前、教室に入って席にカバンを置く。チャイムまで少し時間がある。
前の席の歩ちゃんが振り返ったので、小声で切り出した。
「今日、放課後ね。いつきさんが、少し時間をもらえないかって。商店街の角で待ち合わせ」
「了解! 角ベンチのとこね!」
歩ちゃんの目が一気に輝く。口の端が上がっている。
「ふふーん」
「なに、それ」
「今日、でしょ? ホワイトデー。察しはつくよ。楽しみ」
隣の朱鷺子が教科書を出しながら、ため息まじりに笑った。
「はいはい、楽しみは分かったけど、まずは小テストね」
「はいはい」
チャイムが鳴る。各自の席に向き直り、ノートを開いた。放課後の集合時刻を、もう一度だけ頭で確認する。
***
終礼が終わって、三人で昇降口を出る。肩を並べていつもの道を歩く。角を曲がったところで、エコバッグを提げたいつきさんが向こうから来るのが見えた。
「待たせたな」
「いえ。お仕事の合間にすみません」
いつきさんは歩ちゃんと朱鷺子に、それぞれ小さな袋を差し出した。クラフト紙に無地の紐、角に貼られた小さな付箋だけ。
「この前はありがとう。中身はお菓子だけだ。家で分けて食べてくれ。――あと、今度うちに来る時、夕飯のリクエストを一品だけ受け付ける。決まったら和葉に伝えてくれ」
「え、いいんですか!? やった!」
歩ちゃんは目を輝かせ、朱鷺子は苦笑しながらも受け取った。
「ありがと。……本当に一品いいのね?」
「一品まで。巨大メニューはやめてくれ。材料は相談で」
「了解しました」
やりとりはそれだけ。いつきさんは「帰り道、気をつけて」とだけ言って、仕事へ戻っていった。二人は袋の重さを確かめながら顔を見合わせる。
「なんか、こういうの、いいね」
「うん。……和葉は、夜かな?」
「たぶん。今日は普通に帰ってご飯作るよ」
私たちは商店街の端で別れた。
***
夜。夕飯の片づけが終わったあと、いつきさんがいったんキッチンを離れて戻ってきた。片手に細い枝を持っている。黄色い小さな花がついていた。
「ミモザ? ……きれい」
「小さいのを選んだ。窓辺のコップで足りる」
テーブルに戻ると、白い箱が一つ、私の席の前に置かれていた。派手じゃないのに、ちゃんとしている。
「ホワイトデー」
いつきさんはそれだけ言って、座った。蓋を開けると、春の紅茶と焼き菓子が少し。白いティーカップが一客、薄紙で包まれていた。箱の隅に、封筒がある。
「……開けてもいい?」
「ああ」
封を切って、一枚のカードを読む。文は短い。読み終わると、自然と胸の高さで手が止まった。顔が熱くなるほどではないのに、嬉しい。
「ありが――」
途中で言葉が詰まる。いつきさんは少しだけ首を傾げた。
「最初の一杯は、一緒に淹れよう。そう書いた」
「……うん」
いつきさんが立ち上がって、ポットに水を汲む。カップを一度、軽く温める。湯気が立って、香りがふわっと広がる。ティーバッグを落として、時間を見ながら待つ。湯呑みの棚を見て、いつきさんが少し笑った。
「まあ、俺はいつもの湯呑みだけどな」
「じゃあ、父の日には私から。いつきさんの分も、同じカップを一客、贈るね」
「無理するな。湯呑みで足りる」
「これは私の普段使い。『一緒に』の時はおそろいがいいの。棚のこの一段、空けておいて」
少し考えて、いつきさんがうなずく。
「……そうか。それなら、ありがたく受ける。じゃあ、ここを空けておく」
「約束です」
「約束だ。まずはそれ、毎日使ってくれ」
二人でカップと湯呑みを並べ直し、最初の一杯をもう一口だけ飲んだ。
***
部屋に戻ると、メッセージアプリに通知が来ていた。三人のグループ。
【歩】お菓子おいしかった!
【朱鷺子】量もちょうどよかった。明日また食べる
【歩】ねえ、袋の小さいカード見た?
【朱鷺子】見た。お礼だけ、ってとこが弓削さん
【和葉】うん、私にも入ってた。ありがとうって書いてあったね
【歩】で、夕飯リクエスト一品までOK、どうする?
【朱鷺子】私は魚の煮付け。甘辛いやつ
【歩】ハンバーグ!(即決)
【朱鷺子】偏りがすごいけど、まあ一品ずつだし
【和葉】了解。日程合わせるね。買い出し表つくる
【歩】そういえば、和葉の方はどうだった?
【和葉】紅茶とお菓子、それとカップ
【歩】カップ! 写真!!
【和葉】[写真:白いティーカップとミモザの枝]
【朱鷺子】実用品で堅実。弓削さんらしい
【歩】ミモザかわいい。窓辺に合いそう
【和葉】最初の一杯、一緒に淹れた
【歩】いい……
【朱鷺子】それは尊い
【歩】そのカップ、毎日使うんだよ!
【和葉】使う。あと、父の日におそろいを私から一客、の予定
【朱鷺子】計画的
【歩】そのときも写真よろしく
【和葉】明日の持ち物、英語の宿題と体操服
【歩】りょーかい
【朱鷺子】了解。じゃ、そろそろ寝る
【和葉】うん。おやすみ
【歩】おやすみー
【朱鷺子】おやすみ
通知を閉じる。窓辺のコップで、ミモザが小さく揺れていた。
――来年の三月も、同じように話せたらいい。そう思いながら、私も明日の支度を始めた。