2024年3月8日(金)
夕方、仕事に一区切りつけて椅子を引く。ペン立てには、細いリボンが一本ささったままだ。バレンタインの包みにかかっていたやつだ。捨てる理由も、残す理由もないが、手は伸びない。
(世間の父親は、娘に何を返すんだろう。――その範囲で考えればいいんだろうが)
スマホが震えた。和葉からだ。
《歩ちゃんと朱鷺子と図書館いってきます》
「行ってこい。気をつけてな」と返すと、椅子の脚に御子神さんが体を擦りつけ、裾をしっぽで叩く。
「……引き込もって悩んでも仕方ない。一風呂浴びてくるか」
***
銭湯の休憩所。風呂上がり、いつも一本を飲み終えたところで、肩を叩かれた。
「よう、弓削。いい湯だったか?」
「彼方さん。まあ、いつも通り」
彼は隣に腰を下ろして、横目で笑う。
「どうした。“悩んでます”って面してるぞ。何だ?」
「ホワイトデーのお返し」
「あー、そんな季節か。で、相手は?」
「……和葉と、その友人が二人」
「おいおい、モテモテじゃねえか」
「からかわないでくださいよ」
「冗談だ。まあ、一緒に暮らしてる和葉ちゃんなら毎日使える物がいい。友達は消え物。迷ったら遥に方向だけ聞け。答えは自分で出す――それが筋だ」
「……了解」
「じゃ、俺はひとっ風呂入ってくるわ。せいぜい悩むんだな」
くだらない世間話を二、三往復して別れる。湯上がりで体が軽い。頭も少し軽くなった。
***
商店街に戻ると、日曜の午後らしい人出。八百屋の前で、白衣の襟に薄手のコートを重ねた遥さんが手を挙げる。
「お買い物ですか?」
「ええ、散歩を兼ねてですけど。……それより、相談が」
「ホワイトデーですね?」
先回りされて、思わず苦笑いする。
「さっき彼方さんから“銭湯で会った。たぶん寄る”ってだけ連絡が来てました。あとは、季節的に」
「そうでしたか」
「――和葉ちゃんは、『思い出や、その時の気持ち』を大切にする子だと思いますよ。私からはここまでで」
「思い出……なるほど。助かりました」
遥さんは軽くうなずき、手提げを持ち直す。
「じゃあ私は戻ります。健康診断の件は、また連絡くださいね」
「ええ、日程見て連絡します。ありがとうございます」
「いってらっしゃい」
遥さんは小さく手を振って八百屋の店先へ戻っていった。俺は商店街の流れに歩幅を合わせながら、今聞いた言葉を頭の中で短く反芻した。
***
夕方、和葉から《今から帰るね》と連絡。台所の下ごしらえを終えて、机に戻る。
頭の中で並べる――普段使いできるもの、思い出・出来事として残る方向性。この二つを両立させる。
食器棚を思い浮かべる。並んでいるのは湯呑みばかりで、洋食器はほとんどない。だったら、毎日使える白いティーカップを一客足すのがちょうどいい。
ブラウザで注文ページを開く。春摘みの紅茶の小箱、素朴な焼き菓子少量、白磁のティーカップ。色は白。過剰な装飾は不要。
カートを確認して決済。注文確認メールが届く。到着はホワイトデー前日の予定だ。
歩と朱鷺子には残らない菓子のみを別途注文。こちらも前日着。
花は当日、一枝だけを買うつもりだ。窓辺に差せるサイズでいい。
引き出しから小さな白いカードを三枚出し、ペン先を置く。一度だけ迷ってから、短く書く。
書き終えたカードを封筒に入れ、引き出しにしまう。
引き出しを閉めたところで、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー」
「おかえり。手、洗ってうがいして」
キッチンに戻り、湯を沸かす。御子神さんが足元に来て座った。
「今日は簡単でいいな。野菜切るのを手伝ってくれ」
「はい」
二人で分担して、鍋を火にかける。和葉は図書館の話を少しだけする。俺は相槌を打ちながら、頭の中で段取りを並べ直す。――配送は前日着、花は当日、一枝。渡すのは食後がいい。最初の一杯ぶんの時間だけ借りるつもりだ。
食器棚に視線をやる。湯呑みが整列している。白い器がひとつ増えるだけで、使い勝手は変わるだろう。
「味見、いいですか?」
「ああ。熱いから気をつけろ」
鍋のふちから少しすくって渡す。表情を見て、塩を少し足した。
夕食の支度が整ったら、あとは普通に過ごすだけだ。カードは書いた。花は当日。荷物が届いたら揃えて、ただ手渡す。余計な前置きは要らない。
「じゃあ、盛るぞ」
「はい」
テーブルに器を並べる。――準備は終わり。あとは当日、いつも通りに。