2024年2月14日(水)
朝、コーヒーを淹れて、冷蔵庫の扉に手をかけて――やめた。
開けたら何かあるのはわかっている。
見なかったことにしよう。
ノートPCを開く。午前は会議、午後はレビュー。
画面の脇で御子神さんが丸くなり、ときどき尻尾だけ動かした。
***
夕方、スマホが震える。
〈今から帰ります〉
〈了解。気をつけろ〉
このやり取りも、すっかり日課になった。
律儀に報告してくれるから、こちらは余計な心配をせずに済む。
玄関の鍵が回る音。
御子神さんが先に走り、和葉が「ただいまー」と声をかける。
手洗いとうがいの水音が止み、冷蔵庫の扉が開いた。
「おかえり」
「ただいまかえりました!」
テーブルの前で、彼女は一度深呼吸してから、白いタグのついた包みを差し出した。
「日頃の感謝を込めて。受け取ってください」
字は見慣れた細さだが、今日は少しだけ大きい。
「ありがとう。大事にいただく」
受け取る側は、余計な意味を探さず、そのまま受け取ればいい。
結び目を指で軽く撫で、テーブルの端に置く。
それだけで、彼女の視線がほぐれた。
「それと、預かりもの。歩ちゃんと朱鷺子から」
緑と赤のリボンが二つ。
「律儀だな。ありがとうと伝えてくれ」
小皿に三つ並べる。
包みを一つ開き、端を割って口に運ぶ。
最初にほのかな塩味。
すぐに甘さが追いかけてくる。
舌の上で、静かに溶けた。
「ほら。一緒に食べよう」
差し出すと、和葉は少し照れながら受け取る。
指先が触れた一瞬だけ、気配が重なった。
彼女も一口含み、小さく笑う。
「おいしいです。やっぱり三人で作ったからかな」
「丁寧に作ってあるな」
「朱鷺子が温度を見て、歩ちゃんが飾って、私が混ぜたんです!」
並んで小皿を覗き込む。
窓の外は冷たい。
部屋の中は、静かに温かい。
「二人の分は後でいただこう。猫はチョコがダメだから、棚の上に置いといてくれ」
「はい」
御子神さんが不満げにこちらを見る。
和葉が小袋を取り出すと、紙の音に反応して猫が前足を伸ばした。
「はいはい、これね」
小さなおやつを差し出す。
御子神さんが喉を鳴らす。
和葉の指先が、やわらかく背を撫でる。
その仕草を見ているだけで、部屋の空気が緩む。
***
「そうだ。せっかくだから、直接お礼、言ってください。二人、絶対喜びます」
「連絡先は持ってない」
「私のスマホでグループ通話にします。スピーカーにして」
呼び出し音が二回。
『はーい! こちら歩ちゃん、回線良好!』
『朱鷺子です。聞こえてます』
「弓削だ。さっき受け取った。丁寧に作ってくれて、ありがとう。大事にいただく」
『やった! 来月、期待してます!』
「来月?」
『ホワイトデーです!』
『歩、要求が露骨。――でも、気持ちは同じ。和葉を支えてくれて、ありがとうございます』
「こちらこそ。和葉の面倒見てくれて助かってる」
「え?持ちつ持たれつですよ!?」
『任務完了。では、撤収!』
通話が切れる。
和葉はスマホを胸の前で抱え、ほっと息をついた。
「ありがとうございました」
「礼を言うことじゃない。――さ、夕飯の準備に戻るか」
御子神さんが足元で一声鳴く。
通話の余韻が、部屋に静かに溶けた。
***
在宅で仕事を始めてから、季節の行事とは縁が薄かった。
家の中だけで一日が完結し、月日だけがカレンダーを滑っていく。
でも。
紙袋とリボンと、短い通話ひとつで、季節がちゃんと家の中に入ってくる。
悪くない。
来月のお返しは何にするか。
焼き菓子か、それとも飲み物に添える何かか。
考える時間ごと、楽しめばいい。
和葉と並んで台所に立ちながら、そんなことを思っていた。




