Side:和葉 2024年2月3日(土)
昼までは、ただの曇りだった。
午前中に宿題を片づけ、お昼を食べ、予約票をポケットに入れて家を出たとき、空からは何も落ちていなかった。
駅前のスーパーで番号札を渡す。
恵方巻きの長い箱が二つ、紙袋に入って戻ってくる。
館内放送が「路面の凍結にご注意ください」と繰り返す。
自動ドアが開くたび、外の白さが一段濃くなっていた。
紙袋の持ち手を握り直して外へ出た瞬間、粒の細い雪が、音を吸うみたいに降りはじめる。
十分もしないうちに本降りになった。
ポケットのスマホが震える。
〈雪が強い。迎えに行く。入口で待て〉
〈はい。気をつけて〉
軒先で風よけに体を寄せる。息が白い。
指先が冷えてきたころ。
「待たせた」
背後から声がした。
振り向くと、いつきさんの肩に細かい雪の斑点。
紙袋を持ち上げて見せると、無言で受け取ってくれた。
「袋は俺が持つ。滑りやすいから、俺の足あとを踏んでいけば多少はマシだ」
「はい」
並んで歩き出す。
足あとを探し、その上に自分の靴を落とす。
角の手前でつるっと前に傾いた瞬間、肩をすっと支えられた。
胸のどこかが、小さく跳ねる。
「大丈夫か」
「……大丈夫です」
***
家に着くころには、コートの肩が白く縁どられていた。
玄関で御子神さんが低く鳴き、鼻先で私の靴をつん、と押す。
「先に手を温めろ。靴下も替えろ」
「はーい」
洗面所で温水に手を当てる。
感覚が戻るたび、じんわり気持ちがほどけていく。
居間に戻ると、恵方巻きの箱が並び、味噌汁の湯気が上がっていた。
「今年の恵方はこっちだな」
「はい」
二人で同じ方向を向き、黙ってかぶりつく。
最初の一口は海苔が少し固くて、
二口目で酢飯の匂いがほどける。
三口、四口。
食べ終えて顔を見合わせると、自然に笑みが出た。
***
食器を片づけたあと、いつきさんが小さな紙コップを二つ置く。
中には、個包装の豆の小袋。
「豆まきは形だけやる。猫は豆が危ないから、袋のまま投げて、あとで回収」
「わかりました。御子神さんはケージに避難ね」
ケージの扉を閉めると、中で短く「にゃ」と返事があった。
私は紙コップを両手で持ち、玄関へ。
「いきます。――鬼は外!」
小袋が、ぱさ、と畳で跳ねる。
「福は内!」
二人で数カ所だけ投げて、すぐ拾い集める。
静かな行事。
それでも、終わると部屋の空気が少し明るくなった気がした。
「お迎え、ありがとうございました」
「そそっかしい所あるからな、心配だったんだ」
「……否定はできないので、許します」
「なんで偉そうなんだ……」
小さなじゃれあいが、胸にやわらかく落ちる。
エプロンの紐を結び直し、小さく息を吸う。
「じゃあ今日は特別な新サービスです。足湯・蒸しタオル・肩揉み。準備するので椅子に座って待っててください」
ケトルの湯を洗面器に落とし、冷水で温度を合わせる。
足を入れたとき、いつきさんの表情がほんの少し緩んだ。
「温度、どうですか」
「ちょうどいい」
「では蒸しタオル、いきます」
濡れタオルを温め、首もとへ。
じんわりと湯気が上がる。
「熱っ……くはない。効く」
「えへへ。では次は、肩揉みです」
指先で肩をつまむ。力は半分。
「いち、に、さん……」
「実況しながらやるのか」
「楽しいからです。いつきさんのお世話をするのは、すごく楽しいです」
十で手を放す。
肩を回してみせる。
「軽い。いい仕事だ」
「動画見て勉強したんです!」
***
豆の小袋を棚の上へ上げ、加湿器の水を足す。
窓の結露がうっすら光る。
こたつを少し寄せ、布団を二組、同じ向きに並べた。
「ストーブ、切ったか?」
「はい。加湿器は中。電気毛布は弱にしてます」
「OK」
灯りを落とす。
暗いのに、雪の反射で天井がうっすら明るい。
布団に入ると、綿の重みが体に馴染む。
御子神さんが一巡して、二人の間にころん、と収まった。
「今日はありがとうございました」
「気にするな。恵方巻き、うまかったな」
「はい。来年も、一緒に食べたいです」
しばらく、何も話さない。
掛け布団が小さく上下し、隣の呼吸がこちらに寄ってくる。
「……あの、そっちに行っていいですか。今日はすごく寒いです」
「そうだな。これだけ降ったのは久しぶりだ」
布団の端をそっと持ち上げてくれる。
そこへ滑り込む。
洗いたての布の匂い。
袖だけつまんで、肩に額が触れない距離で止まる。
体の芯が、ゆっくり温まっていく。
「……明日、雪が残ってたら、また一緒に歩いてください」
「ああ。心配だからな。一緒に出かけるか」
「それと――今日、がんばったごほうびに、頭を撫でてください」
「あいよ」
指先が髪をやさしく押す。
胸の奥がふっと軽くなる。
御子神さんが足元で丸くなる。
三つの体温が、同じ布団の下で混ざっていく。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
雪はまだ降っている。
ひとりで寝る夜より、ずっとやわらかい。




