2023年3月26日(日)③
「……お母さんがいなくなってから、家の中が、静かになりました。
……びっくりするくらい」
和葉は、膝の上に置いた手を握りしめながら言葉を続けた。
「あの人は、ほとんど口をきかなくなって。
帰ってきても、目も合わさないし、話しかけても返事もなくて……」
「でも、ある日、流しに食器が置きっぱなしになってて……。
“洗っとけよ”って、背中向けたまま言われて」
「……それが、始まりだった気がします」
「そこから……だんだん、家事をするのが“当たり前”みたいになって。
洗濯して、掃除して、食事を作って。
でも、それについて何か言われることはなかったです。
……まるで、家政婦みたいでした」
弓削はその言葉に、微かに眉を動かした。
和葉の声は、抑揚こそなかったが、その奥にある疲弊と諦めが伝わってくる。
「学校も……『行かなくていい』って、ただ一言だけ言われました。
“行ったところで、何になるんだ。黙って家のことだけやってりゃいい”って」
「担任の先生から何度か連絡が来てたみたいです。
でも、全部あの人が対応してて、“落ち着くまで休ませます”って……」
「私には何も聞かれませんでした。
もう、学校にも行かせてもらえないんだなって……なんとなく、わかってしまったんです」
そのとき、東海林がそっと手帳をめくっていた。
「児童相談所の人も、一度、訪問に来てくれたんです。
でも……何も言えなくて。
“問題ありません”って、あの人が代わりに答えて……私は、ただうなずくだけでした」
和葉は唇を噛んで、俯いたまま続けた。
「“大丈夫です”って言えって言われてて……本当のことなんて、言えなかったんです」
「言えばよかったって、今は思うけど……
あのときは、まだ、“私が悪い”って思ってたから……」
弓削はそっと息をついた。
黙って聞くだけだったが、その指先には、ゆるく力がこもっていた。
「それから……帰ってこなくなる日も増えて、逆に気が楽になって……」
「食事は、自分で作って、自分で食べて。
お母さんが残してくれてた口座のお金を少し使って、なんとかしてました」
和葉はゆっくりと、思い出すように言葉を選んでいた。
「……でも、一ヶ月くらい前。
あの人が、会社で何かあったみたいで。
“クビになった”って……その日から、急に家に居る時間が増えて、機嫌も悪くて……」
「言い方も雑になって、怒鳴られるようになって。
物を投げられたこともあったし……腕、掴まれて、痣になったことも」
そこまで語ったところで、和葉の声が少しだけ揺れた。
弓削は、ふっと息を吐いたあと、ぽつりと呟く。
「……つらかったな」
その一言に、和葉の肩がわずかに震える。
「……昨日、私の誕生日でした」
声は低く、抑えられていた。
「その夜、食器を片づけていたら……あの人が言ったんです」
「“女なんて身体ひとつで稼げるだろ”って……」
「“流行ってんだろ、そういうの。お前もそろそろ自分で稼いでこいよ”って言われました」
息が詰まるような間があった。
和葉は、手をぎゅっと握りながら続ける。
「“俺はガキの身体になんか興味ねぇけどな”って……」
沈黙。
東海林はゆっくり目を閉じた。
弓削はその場で拳を握り、けれど何も言わなかった。
「それを聞いたとき……もう無理だって思って」
「このままじゃ、自分が壊れるって思って……」
「だから、家を出ました。行くあてもなくて……ただ、歩いて」
「気づいたら雨が降ってて、寒くて……」
そこまで言ったとき、和葉はふと顔を上げ、弓削を見た。
「……そのとき、あなたが声をかけてくれたんです」
「それで、助けてもらって……銭湯に、連れて行ってくれて……」
言葉が小さくなったその瞬間――
弓削の横に座る彼女の手が、彼の服の裾をそっとつまんでいた。
気づかれたことにも気づいていないように、目を伏せたまま。
弓削は、それに何も言わず、ただ視線を前に戻した。
投稿しようと下書き保存すると、直したい部分が見つかってしまう。
ギリギリ間に合いませんでした....
そろそろ1章も終盤です。早く重い空気から抜け出したいです。
今回もご覧いただきありがとうございました。