2023年4月2日(日)③
「……お母さんがいなくなってから、家の中が、静かになりました。
……びっくりするくらい」
和葉は、膝の上で手を握りしめたまま続ける。
「あの人は、ほとんど口をきかなくなって。
帰ってきても、目も合わさないし、話しかけても返事もなくて……」
「でも、ある日、流しに食器が置きっぱなしになってて……。
“洗っとけよ”って、背中向けたまま言われて」
「……それが、始まりだった気がします」
「そこから……だんだん、家事をするのが“当たり前”みたいになって。
洗濯して、掃除して、食事を作って。
でも、それについて何か言われることはなかったです。
……まるで、家政婦みたいでした」
思わず眉が動く。
抑揚のない声なのに、奥にある疲れが伝わってくる。
「学校も……『行かなくていい』って、ただ一言だけ言われました。
“行ったところで、何になるんだ。黙って家のことだけやってりゃいい”って」
「担任の先生から何度か連絡が来てたみたいです。
でも、全部あの人が対応してて、“落ち着くまで休ませます”って……」
「私には何も聞かれませんでした。
もう、学校にも行かせてもらえないんだなって……なんとなく、わかってしまったんです」
視界の端で、東海林さんが手帳をめくる。
「児童相談所の人も、一度、訪問に来てくれたんです。
でも……何も言えなくて。
“問題ありません”って、あの人が代わりに答えて……私は、ただうなずくだけでした」
和葉は唇を噛んだまま、続ける。
「“大丈夫です”って言えって言われてて……本当のことなんて、言えなかったんです」
「言えばよかったって、今は思うけど……
あのときは、まだ、“私が悪い”って思ってたから……」
息を吐く。
何も言えない。ただ、聞くしかない。
気づけば、指先に力が入っていた。
「それから……帰ってこなくなる日も増えて、逆に気が楽になって……」
「食事は、自分で作って、自分で食べて。
お母さんが残してくれてた口座のお金を少し使って、なんとかしてました」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「……でも、一ヶ月くらい前。
あの人が、会社で何かあったみたいで。
“クビになった”って……その日から、急に家に居る時間が増えて、機嫌も悪くて……」
「言い方も雑になって、怒鳴られるようになって。
物を投げられたこともあったし……腕、掴まれて、痣になったことも」
声がわずかに揺れる。
「……つらかったな」
気づけば、口から出ていた。
和葉の肩が小さく震える。
「……昨日、私の誕生日でした」
低く抑えた声。
「その夜、食器を片づけていたら……あの人が言ったんです」
「“女なんて身体ひとつで稼げるだろ”って……」
「“流行ってんだろ、そういうの。お前もそろそろ自分で稼いでこいよ”って言われました」
喉が詰まる。
「“俺はガキの身体になんか興味ねぇけどな”って……」
沈黙が落ちる。
視界の端で、東海林さんが目を閉じたのが見えた。
拳を握る。けれど、何も言えない。
「それを聞いたとき……もう無理だって思って」
「このままじゃ、自分が壊れるって思って……」
「だから、家を出ました。行くあてもなくて……ただ、歩いて」
「気づいたら雨が降ってて、寒くて……」
和葉が顔を上げる。
「……そのとき、あなたが声をかけてくれたんです」
「それで、助けてもらって……銭湯に、連れて行ってくれて……」
声が小さくなる。
そのとき、服の裾が、そっと引かれた。
視線を落とす。
和葉の指先が、無意識のように掴んでいる。
何も言わず、前を向いた。
投稿しようと下書き保存すると、直したい部分が見つかってしまう。
ギリギリ間に合いませんでした....
そろそろ1章も終盤です。早く重い空気から抜け出したいです。
今回もご覧いただきありがとうございました。




