2023年12月31日(日)
午前。大掃除。
窓の結露を拭う指が冷たい。換気扇のフィルターを外すと、油が冬らしく固まっていて、ぬるま湯に溶けていく泡の音が台所に広がった。水が金属を叩く軽い音と、外の風の細い唸り。年の瀬の音は、いつも家の内側を静かに整える。
和葉は脚立を押さえ、俺は上の棚を拭く。床では御子神さんがコードにじゃれ、モップの先を獲物のように追いかけ回す。邪魔しかしていないが、本人にとっては仕事の一部なのかもしれない。
「少し脚立がガタついているな。しっかり押さえてくれ」
「はい。……御子神さん、邪魔しちゃダメ」
言われたところで、御子神さんは尻尾だけ返事をした。満足したのかこたつの脚に体を預けて目を細める。一番快適な場所を、猫はよく知っている。
居間、キッチン、風呂場。普段ほこりの少ない家でも、年末はやることが多い。雑巾を絞るたび、今年の薄い層が一枚ずつ剥がれていくような気がした。腰を伸ばしてひと息つくと、和葉は満足げに頷く。
「気持ちいいですね」
「まぁな」
和葉の顔が満足げにゆるんでいる。自分の家が片づいて嬉しい、って顔だ。十分だ。
***
午後。買い出し。
「どんなお雑煮作るんですか?」
「鶏出汁のつゆに、大根とにんじん、鶏肉だけの、シンプルなやつだ。うちではいつもそうだった」
「お母さんが作ってくれていたのとは全然違う気がします。楽しみです!」
袋に品物を詰めてもらいながらそんなやり取りをして、買い物を終えて店の外に出た。袋の重さが腕に食い込み、掌が冷たくなる。店内の暖気が背中を温め、外の冷気に触れると一気に引き締まる。
「海老、まっすぐに揚げたいです」
「腹側に軽く切り込み。筋を押さえて延ばす。粉は薄く、油は二度」
「覚えます」
メモのチェックを終えて帰路につく。日が落ちるのが早い。買い物袋が足に当たる音がリズムになって、玄関の鍵を回すまでが少し短く感じた。ドアを開けると、御子神さんが鈴を鳴らして出迎えてくれた。
***
夕方。年越しそばの準備。
和葉は真新しいエプロンを取り出した。首元の小さな猫の刺繍が、灯りで揺れる。クリスマスに渡したとき、包み紙を解く手が少し震えていたのを思い出す。飾りより、使うもの。ここではその方が長く心に残る。
「似合ってる」
「……やった。クリスマスにいただいたやつ、今日が初おろしです」
鰹だしを温め直し、つゆを合わせる。和葉は海老の背わたを取り、腹に細かい切り込みを入れて、手のひらで軽くのばした。打ち粉は薄く、衣も薄く。身に余計な重さを背負わせない。
「いきます」
「最初は低め。色づいたら温度上げろ」
油の音が変わる。跳ねる香りが冬の空気を押し返す。揚がった海老は、少しだけ弓なりだが、許容範囲だ。完璧でなくていい。今日の手で作ったものなら、十分だ。
「……合格?」
「及第点」
湯で上げたそばを手早く丼に分け、つゆを張り、かまぼこと刻んだ長ネギ。海老をそっと横たえる。丼の上に湯気が輪になって立つ。
こたつに移動して並べた。御子神さんは縁で香りだけを味わっている。ずるい、という顔だ。
「いただきます」
「御子神さんが海老を狙っている、気をつけるんだ」
「は、はい」
啜る音が静かに部屋に響く。熱いだしが喉を滑り、腹にじんわり広がる。いつもの年越しの味だが、今年は一人と一匹じゃない。和葉が笑ってこっちを見る。去年とは違う温かさが部屋に満ちている。
***
食べ終えて、湯呑を手に小さな打ち合わせ。湯気が指をほどいていく。
「初詣、どうします?」
「行かない。元日は一日中混む。俺は雑煮のだしを取ってる。——お前らだけで行ってこい」
混雑は苦手だ。人の熱が嫌いなわけじゃないが、熱は熱で、守るには余分な目が要る。家を留守番する役の方が落ち着く——本音を言えば。
「えっ……。歩と朱鷺子に聞いてみます」
和葉がグループにメッセージを送る。
【和葉】あけたら初詣どうする? 行く?
【歩】行く! 夜中に行くに決まってるでしょ!
【朱鷺子】寒いけど……行く。
【歩】弓削さんも来てください! 監督役!
【朱鷺子】防犯と迷子対策
【和葉】わかった!
「ということです」
「……三人がかりか」
「お願いします!」
必要とされているというより、人数に入れられている。監督役、という名の虫除けかもしれない。役目があるなら行けばいい。
「分かった。付き添う。防寒は厚めで行け」
「了解です、隊長」
和葉はエプロンのポケットから小さなメモを出して、「マフラー」「カイロ」「手袋」と書き足した。御子神さんはペンの先を追って、前足でちょんと触れる。紙の音が小さく鳴る。
テレビからは年越し特番の笑い声。外は静かで、窓ガラスに自分たちの姿が薄く映る。家の中だけ、明るい。
「そろそろだな」
時計の秒針が音を立てる。こたつの中で、和葉の足先が少しだけ触れた。退けるほどの理由はない。こういうとき、理由はいらない。
十、九、八——テレビのカウントに合わせて、息を整える。数が小さくなるほど、部屋の音がよく聞こえる。
二、一。
「——あけましておめでとうございます」
「おめでとう」
和葉は一拍おいて、まっすぐこちらを見る。視線に力がある。言葉を探し、口にした。
「去年は助けてくれてありがとうございました。今年は、いつきさんにも頼ってもらえるように、私も頑張ります」
和葉は小さく俯き、すぐに顔を上げる。真剣さはそのまま、目元だけが少し緩む。
「できる範囲でやれ。無理だと思ったら言え」
俺は軽く頷く。言葉は短いが、意味は届いている。
和葉も頷く。横で聞いていた御子神さんがあくびをして、鈴が小さく鳴った。
「さて、待ち合わせしてるんだろ? 準備をしろ」
「はい」
立ち上がる前に、こたつの縁に手を置いて温もりを確かめる。年が変わっても、家の温度は変わらない。玄関の照明を点けると冷たい空気が入り、こたつに戻った御子神さんの鈴がもう一度鳴った。
鍵をかけ、マフラーを直す。和葉は肩の触れる距離に並び、ためらわずに手を繋いできた。今さら指摘するつもりはない。そのまま手を繋いで、神社へ向かった。
3章はここまで。
次回から4章へと進みます。




