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コンプライアンスを遵守したい年の差恋愛  作者: 金雀枝
第3章:もう一つの居場所
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Side:和葉 2023年12月17日(日)

 朝からそわそわして、落ち着かない。お茶を啜っても、味がぼやけるように感じる。鏡の前で前髪を直しながら、こっそりいつきさんを盗み見ると、いつきさんは黙ってコーヒーを飲みつつ「大丈夫か?」と短く訊いた。声は小さいけれど、その目はいつもより穏やかで、胸の奥がふっと安らぐ。


「別にいつも通りでいいだろ」


 その一言で肩の力が抜けた。完璧である必要はない。今日はそれが大事じゃない気がする。


 ***


 午後、チャイムが鳴る。玄関を開けると、歩と朱鷺子が大きな袋を抱えて笑っていた。歩は保冷バッグを抱え、朱鷺子は白菜やネギの入った紙袋を丁寧に抱えている。


「遅れてごめん!」


「来てくれてありがとう」


 リビングに入ると、御子神さんがこたつで丸くなっていた。テーブルに鍋を据えると、歩が保冷バッグをがさりと開け、朱鷺子が白菜やネギを丁寧に並べる。


「せっかく時間もあるし、手順は教えるから、今日はおまえたちで作ってみたらどうだ?」


「はい!」


「ええ、任せて」


「わかりました!」


 いつきさんの声は柔らかく、でも要点ははっきりしている。いつきさんが最初にだしの取り方を手早く見せてくれたあと、私たちは台所へ移動して各々の準備を始めた。いつきさんは一歩下がって、時々だけ手を差し伸べるくらいで、私たちを見守ってくれている。


 ***


 包丁のリズムと、袋がぱさりと開く音、保冷バッグのファスナーの金属音が重なる。鍋が火にかかると、昆布のだしの甘い匂いがふわりと広がり、きのこの香りがその隙間にすっと入ってくる。湯気が立ち上り、白い揺らぎがテーブルの上に漂うと、皆の顔がふっと緩んだ。


「いただきます!」


「おいしい」


「今日も寒いし、なおさらだね」


 一斉に箸を伸ばす瞬間の、ちょっとした緊張が好きだ。鶏肉のほろりとした歯触り、白菜のシャキッとした甘み、きのこの香ばしさ――口に入れた瞬間に体の中がじんわり温まる。私は小さなお椀を手にして、いつきさんの方を見る。いつきさんは鍋の中心をほんの少しずらして火加減を直すだけで、皆の取りやすさと味のバランスを整えてくれる。


「もう少し、味を足すならだしを足してから醤油をちょっと」


 と、いつきさんが短く助言する。誰かが小さく笑って、「いつきさんプロだね」と返すと、いつきさんは照れたように目を細めた。そういうやり取りが自然に流れて、鍋の周りには穏やかな連帯感が生まれる。


 歩が大げさに「デザートは後で!」と言ってアイスの箱を覗かせ、朱鷺子が静かに箸を置いて笑う。御子神さんがこたつの端でのそのそ動き回るのを見て、私は胸がさらに温かくなる。友達と、そしていつきさんと分かち合うこの時間が、ふと特別に感じられるのだった。


 ***


 食事が落ち着くと、話題はプレゼント交換に移った。事前に決めたとおり、今回は普通に交換する方式だ。歩が先に小さな包みを取り出し、朱鷺子もそっと袋を差し出す。二人は、いつきさんにもプレゼントを用意してくれていた。


「弓削さんにも渡したいんだ。普段お世話になってるから」


 歩の声に、テーブルの空気がふっと柔らかくなる。朱鷺子も小さく頷いた。


 いつきさんは一瞬目を細めて驚いたように見えた。すぐに肩をすくめて、申し訳なさそうに言う。


「俺、用意してなくて……悪いな」


 歩はすぐに真面目な顔をして制した。

「いいんだよ。気にしないで、受け取ってくれる?」


 朱鷺子も穏やかに続ける。

「普段お世話になってるんだから、私たちから渡したいの。気にしないでください」


 いつきさんは少し照れた笑みを浮かべて、それでも丁寧に包みを受け取った。その手つきが静かで落ち着いているのを見て、胸がぽっと温かくなる。


「ありがとう。大事にするよ」


 いつきさんが包みを開くと、不格好だけれど心を込めた私のクッキーが見えた。視線が熱くなってそらすと、いつきさんが低く呟いた。


「手作りか」


 その声には驚きと、少しの愛おしさが混じっていた。私は俯いたまま、こみ上げる恥ずかしさと嬉しさを押さえる。


 するといつきさんが、くすりと小さく笑ってから言った。

「今度、一緒に作ってみるか」


 その言葉に、胸の中がふくらんだ。用意していなかったことを少し申し訳なく思っていたいつきさんの表情が、ほっと和らいだのが見えた。私は小さく頷き、包みの温度を胸に残しながら、次の話題へと移った。


 ***


 鍋の〆は雑炊にした。火を落とし、卵を回し入れると湯気がやわらかく立ちのぼる。いつきさんが火を弱めて鍋の向きをそっと直す。小さな椀に少しずつよそい、皆で頬張った。塩気と温かさが体にしみて、今日の時間が静かにほどけていく。


 片付けも自然に分担する。歩が皿を洗い、朱鷺子がテーブルを拭く。私は鍋や調理道具を片付け、いつきさんがコンロ周りを整えるのを手伝う。いつきさんが黙々と動く後ろ姿を見ていると、今日の温かさがじんわり沁みる。


 ***


 夜が更けて、二人が帰る時間になる。玄関先で歩が大声で「今日はありがとう! また呼んでね!」と言い、朱鷺子が「また来るね」と笑顔で手を振る。二人の背中を見送ると、しんとした静けさが戻ってくる。御子神さんが伸びをして、こたつの角に戻って丸くなる。


「楽しめたか?」


「うん。本当に、ありがとう」


 いつきさんは私の頭をそっと撫でる。甘くはないその仕草が、家族を守る人の優しさだと胸に響く。


 ***


 寝る前に、こたつの残り香と今日の景色をゆっくり反芻した。鍋の湯気、笑い声、包み紙の擦れる音――どれもが確かな、柔らかな記憶になっている。窓の外の星を見上げながら、心の中で小さく「今年のクリスマスは、ここで」と繰り返した。


 布団はいつものように並べてある。いつきさんは自分からこちらに寄ってくることはなくて、その距離の取り方がいつきさんなりの誠実さなのだと、私はもう知っていた。無理に近づかない慎重さが、私には守られている実感につながっている。


 それでも――今日はどうしても、少しだけ近くにいたくなった。私は静かに布団の縁を持ち上げ、そっといつきさん側へ身を滑らせる。体が触れた瞬間、いつきさんは身じろぎひとつしなかった。手を伸ばしてくることはない。ただ、そこに私がいるのをそっと受け止めてくれている空気があった。


 ためらわずに腕を回して、いつきさんの腕にしがみつく。生地越しに伝わるいつきさんの体温が、胸の奥にじんわりと広がる。いつきさんはそのまま静かにしている。先に手を回して抱きしめることも、こちらに寄り添ってくることもなく、ただそこで受け入れてくれるだけだ。そうしてくれるだけで、私の不安はするりとほどけていった。


「おやすみ」


 いつきさんの声はいつもより少しだけ柔らかく聞こえた。


「おやすみなさい」


 目を閉じ、深く息を吐く。外の夜は冷たいけれど、ここは暖かい。今日のぬくもりが胸にゆっくりと満ちて、静かに眠りに落ちていった。

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