2023年3月26日(日)②
「……お母さんが、亡くなったのは……一年前です」
静かな部屋に、和葉の声が落ちた。
その小さな声は、どこか遠くから響いてくるようだった。
「ほんとうの、お父さんは……私がまだ小さいころに、病気で亡くなりました」
少し間を置いて、和葉は続ける。
「だから、私の記憶の中には、あまり残ってないんです」
東海林は黙ってうなずき、弓削は言葉を飲み込んだ。
その語り口には、どこか探るような間があった。
和葉自信も、はっきり覚えていない記憶を、少しずつ確かめながら話しているようだった。
「それからは、お母さんとふたりで暮らしてました。
決して楽ではなかったけど、お弁当を作ってくれたり、一緒にテレビを見たり……」
和葉は一瞬、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「そういう毎日が、私はすごく好きで……それで、十分でした」
「……お母さんは、少しだけ夜のお店で働いていました」
そう言ったあと、和葉は少しだけ視線を伏せた。
「……いかがわしいところじゃなくて、たぶん、バーとか。
お酒を出すような、接客のお店だったと思います」
「詳しくは話してくれなかったけど、
“和葉にだけは、ちゃんとご飯食べさせてあげたいから”って、いつも言ってて……」
東海林が小さくうなずく。
弓削は、静かに拳を握り直していた。
「その頃、お店に来ていたお客さんのひとりが、今の……義父でした」
「最初は、ふつうの人に見えました。無口だけど、優しそうで。
お母さんは、“すごく大事にしてくれるの”って、笑ってて……」
和葉は一度、言葉を切った。少しだけ息を吸って、続ける。
「だから私も、最初は、別に反対とかしなかった。
お母さんが幸せそうだったから……それが、いちばんだと思って」
「中学に上がるちょっと前くらいに、再婚しました」
そのあたりから、声が少しずつ細くなっていった。
「再婚してからも、最初のうちはちゃんと暮らしてました。
でも、義父は……お母さんのことばかりで、私のことはあまり見てなかった気がします」
弓削はちらりと横目で和葉を見る。
それでも、彼女の声にはまだ芯があった。
「でも……それでも、家の中にはあの人がいて、あたたかい食事があって。
……私にとっては、それだけで十分だったんです」
数秒の沈黙のあと、和葉はぽつりと続けた。
「……一年前の、私の誕生日です」
「その日、お母さんとふたりでケーキを買いに行きました。
“今年は三人揃ってお祝いできそうだから、大きいケーキにしようか”って、お母さんが言ってくれて……」
「スーパーに寄って、ケーキを選んで、
帰り道で……交差点で、車が、曲がってきて……」
そこまで言ったところで、言葉が止まった。
肩が小さく震えていた。
「私がぼんやりしてて……ふらっと、車道に出ちゃって。
お母さんが、私のこと引っ張って……代わりに……」
その先は、言葉にならなかった。
弓削は視線をそらし、東海林は静かに、深くうなずいた。
「……話してくれて、ありがとう」
和葉は小さくうなずいたが、顔は上げなかった。
(この子は……ずっと、このことを抱えて生きてきたのか)
(“誕生日”が、母親を失った日になったなんて――)
部屋の空気が、静かに、痛みとともに沈んでいた。
目標達成ならず、ごめんなさい。
今回もご覧いただきありがとうございました。
暫く重たい話になりますが、お付き合いいただけますと幸いです。