2023年10月28日(土)
玄関先で、和葉が制服の袖をすっと整え、まっすぐこちらを見た。
「行ってきます!」
昨夜よりもさらに軽い声だった。背中がドアを抜けるまで見送り、俺は小さく息を吐く。あの顔で出ていくなら、今日は心配いらないだろう。足元では御子神がのそりと現れ、去っていく影を追って短く鳴いた。撫でると喉が鳴る。その振動に、家の静けさが戻る。
***
昼前、来客名札を首にかけて校門を抜けた。受付のテントにはPTAの腕章、昇降口からは軽音の音が流れている。校庭は色とりどりのテントが並び、湯気とソースの甘い匂い、鉄板の焼ける音、呼び込みの声が折り重なっていた。普段の学校が、一日だけ別の街になったみたいだ。
目的の模擬店は行列ができていた。エプロン姿の和葉が、焼きそばを盛り付けて笑顔で皿を渡す。隣では女子が声を張り、男子が汗を飛ばしながらお好み焼きを返し、もう一人が麺を豪快に炒めていた。よく回っている。いや、繁盛していると言っていい。
和葉はこちらに気づくと、ぱっと顔を明るくして駆け寄ってきた。
「い――お父さん! 来てくれたんですね!」
言い直した拍子に頬を赤くし、視線が一瞬揺れる。
その仕草が妙に子どもっぽくて、俺は胸の奥で苦笑する。
「頑張ってるな」
「はい! もう何十食も出ました!」
そこへ近くの生徒がこちらを見る。
「和葉ちゃんのお父さんですか?」
「ああ。いつもお世話になってます」
口にすると、ほんの少しだけ居心地がずれる。それでも今は、その呼ばれ方が一番収まりがいい。
奥から歩と朱鷺子が手を上げ、慌ただしく戻りながら小声で言う。
「すみません、今日は本当に人が途切れなくて」
「和葉は調理も接客も両方いけるので、助かってます」
和葉が「行ってきます」と小走りで持ち場に戻る。その背中に、家では見せない張り切りがある。頼られている実感が、彼女を真ん中へ引き上げているのが分かった。
俺も列に並び、焼きそばをひとつ注文した。
「和葉ちゃんのお父さんなら、大盛りにしときますね!」
クラスメイトが笑いながらトングを動かし、盛りを倍にしてくれる。
「ちょっ、そんな……」と和葉が慌てる横で、紙皿を受け取った。
鉄板の香ばしさとソースの甘い匂いが重なり、口に運べば熱気と一緒に賑わいが喉を通っていく。見慣れた食べ物なのに、妙にうまく感じた。
***
皿を片手に校庭を回る。オレンジ色のベストに腕章――彼方さんが若い署員を連れてテントの間を巡回していた。
「来てたのか。こっちは仕事だ、火の用心な」
「ご苦労さまです」
「おう、さっきちらっと見たけど、和葉ちゃん、よく働いてるな」
明るい声に、俺も口角だけ上げて返す。文化祭で火を扱う以上、消防の見回りは当然だ。彼方の後ろには地元の若い顔ぶれもちらほら。この街はお祭り好きが多い。こういう日には自然と人が集まる。
テントの陰で、見覚えのあるカップルが皿を手に笑っていた。目が合うと、向こうが軽く会釈する。こちらも首を傾ける。あの一件からしばらく経ったが、二人とも元気そうだ。焼きそばをほおばる横顔に、どうしようもなく日常が滲む。
校舎の壁には展示ポスター、窓からは合唱のハーモニー。金木犀の匂いがふっと風に混じる。視界の端に、また和葉のテントが入る。声を出し、笑い、注文を捌く。忙しさに揉まれても崩れない笑顔だ。
***
昼を少し回ったところで、潮時だと判断した。長居は邪魔になる。校門へ向かう足を一度だけ止め、振り返る。
和葉は鉄板の前でトングを握っていた。あの子は、ここでちゃんとやれている。俺がいなくても。
――それでも、さっき駆け寄ってきたときの顔が、目の裏に残る。
呼びかけは途中で言い直された。周りへの気遣いと、こちらへのまっすぐさが同居した、あの一瞬の表情。
文化祭の熱気の中に混じって、和葉は確かに自分の居場所を持っていた。
声を張り、笑い、同級生たちに頼られている。その姿は、ほんの数か月前まで想像もしなかったものだ。
本来なら当たり前に過ごしていたはずの学校生活を、ようやく取り戻せたのだと実感する。
名札を指先で外しながら、自然と口元が緩んだ。
誇らしい気持ちと、少しの照れくささが同じ場所に並んでいる。
ここが賑やかで、あの子が笑っていて、帰る場所にまた同じ笑顔がある。
――それだけで十分だ。




