2023年3月26日(日)①
三毛が鳴いて起こされた。
「……おはよう」
ぼそりと声をかけると、すり寄ってきたその姿に少しだけ笑みが漏れる。
「飯の時間、ちゃんと覚えてるんだな」
餌皿にフードを入れて、顔を洗いながら思う。
(……ご飯のあとにもすり寄ってくる。ほんと、律儀なやつだ)
昨夜のことが、すでに遠い出来事のようにも思える。
でも、頭の奥には確かに残っていた。あの子の表情、言葉、声。
(今日は、児相か……)
軽く朝食をとり、猫の頭をひとなでしてから家を出た。
***
病院の待合室には、昨日と変わらぬ落ち着きがあった。
少し早めに着いたつもりだったが、受付を通るとすぐに各務先生が姿を見せた。
「おはようございます」
「先生、お世話になります」
「彼女、制服に着替えて、もう準備はできてますよ。
昨日、銭湯の方で洗って乾かしてもらったのが、きれいにたたまれていたので」
「ばあさん、やっぱり抜け目ないですね」
思わず口元がゆるむ。先生も微笑を返した。
「診察室にいます。緊張はしてるでしょうけど、少し落ち着いてきたように見えます」
「……じゃあ、行ってきます」
ドアをノックして、診察室へ入る。
和葉は、制服姿で椅子に腰掛けていた。
リュックを両手で抱えて、伏し目がちに座っている。
「おはよう」
そう声をかけると、和葉はゆっくりと顔を上げた。
昨日よりも、わずかに表情に余裕がある気がした。
「……おはようございます」
声はまだ小さい。でも、しっかりと返ってきた。
それだけで、十分だった。
***
制服姿の彼女を、まともに見るのはこれが初めてだった。
昨日はびしょ濡れで、髪も乱れていて、ひどくやつれて見えた。
ただただ、“守るべき存在だと”考えていた、それだけだった。
でも今は、少しだけ違う。
きれいに整えられた制服に、髪も少し短めのお下げに整えられていて、
“普通の女の子”としての輪郭が、ようやく見えてきた気がした。
(……これが普段の彼女なのか)
そう思えたことが、なんだか少しだけ救いだった。
***
病院を出ると、朝の空気はまだ少し冷たかった。
小さく息を吐くと、白くなった。
「車、こちらです」
先生が軽く手を挙げて、駐車場の方向へ向かう。
俺と和葉は、それに続いた。
助手席には俺、後部座席には和葉。
静かな車内に、エンジンの音だけが響いていた。
「……寒くないか?」
信号で止まったタイミングで、俺がぽつりと口を開いた。
「……だいじょうぶです」
返ってきた声は小さいが、昨日よりははっきりしている。
(……ああ、やっぱり緊張してるな)
「あの、先生」
「はい?」
「児相には、今日はどんな感じの人が対応してくれるんですか?」
「以前から気にかけてくれていた、ベテランの方が来る予定です。
私からも事前に連絡を入れてありますから、大丈夫ですよ」
「……ベテラン、ですか」
「はい。柔らかい雰囲気の方です。安心してください」
バックミラー越しに、先生がちらりと和葉の様子を見て、優しく微笑む。
彼女は、緊張したまま鞄の持ち手を握っていたが――
その指先は、ほんの少しだけ力を抜いていた。
***
車を降りると、目の前に白い建物が見えた。
大きな看板に「児童相談所」の文字がある。
まるで市役所の分室のような、どこか事務的で静かな場所だった。
ガラス扉をくぐると、空気が少し変わった。
受付に声をかけると、すぐに「お待ちしておりました」と返ってくる。
「各務先生ですね。ご連絡いただいております」
奥から、初老の男性が姿を見せた。
背筋は伸びていて、落ち着いた顔つきに穏やかな声――その存在感には、どこか安心感があった。
「児童福祉司の東海林と申します。今日はお越しいただきありがとうございます」
「こちらこそ、お忙しい中すみません」
各務先生が軽く頭を下げる。
「こちらの男性が、昨晩保護してくださった弓削さん。そして……」
「……美作、和葉です」
少女は小さな声で名乗った。
「ありがとう。詳しい話は、あとでゆっくり聞かせてもらうね」
東海林の声は、年齢に似合わずやさしく柔らかい。
和葉が少しだけ目を見開いたのが、印象的だった。
「では、応接にご案内します。すぐ隣の部屋ですので」
扉を開けて案内されるまま、俺たちは部屋に入った。
白い壁に木のテーブル、ソファが並んだ小さな部屋。無機質だが、妙に静かで落ち着く空間だった。
「おかけください。緊張しなくて大丈夫ですからね」
東海林がゆっくりと笑った。
少女は少し戸惑いながらも、俺の隣に腰を下ろした。
このあと、和葉はきっと、少しずつ話してくれるのだろう。
――そして彼女の口から語られたことは、俺の想像を、はるかに超えていた。
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