Side:和葉 2023年10月10日(火)
ホームルームの終わりに先生が一言。
「さて、文化祭の出し物を決めるぞ」
その瞬間、教室に小さな熱が満ちた。
「模擬店やろうぜ!」
「展示は準備が地味じゃない?」
「演劇とかどう?」
机を動かす音、笑い声、黒板のチョークが走る乾いた音。
去年の私は、このざわめきの中にいなかった。
教室の声も笑いも、どこか遠くの世界のことのように思っていた。
「和葉」
歩が振り返って、わざとらしく目をぱちぱちさせる。
「模擬店と展示、どっちがよくない?」
「え、わ、私?」
「和葉、第一印象でいいから答えて!」
「い、いきなり……?」
「そういうのが大事なんだって!」
朱鷺子は「意見は早めに」と淡々と促した。
胸の奥で小さく息を整える。
「……模擬店がいいと思う。焼きそばと、お好み焼き。材料もシンプルだし、同じ鉄板で回せるから」
一拍、静けさ。
すぐに何人もの顔がこちらを向いた。
「効率いい!」
「二本立ては強いな」
「買い出しもまとめやすそう」
肯定の声が次々に重なって、指先から肩にかけて熱が伝わってくる。
「じゃ、模擬店でいく。メニューは焼きそば&お好み焼きで決まりな」
先生が黒板に大きく書き込むと、ぱらぱらと拍手が起きた。思わず、息が軽くなる。
***
次は役割分担だ。調理、会計、装飾、呼び込み、そして――仕入れ。
「仕入れはどうする? スーパーで一括?」
「量が多いと価格がなぁ」
「前日に全部は危ない。分散したいけど」
意見は出るのに、具体が決まらない。配られたリストには、キャベツ、もやし、豚肉、いか、ソース、青のり、かつお節……見慣れた文字が並んでいた。
気づけば、手が上がっていた。
「……あの」
教室の視線がそろう。喉に指先ほどの緊張が引っかかる。
「商店街のお店なら、協力してもらえるかもしれません。八百屋さん、魚屋さん、肉屋さん……いつもお世話になっていて。お願いしたら、協力していただけると思います」
「ツテ、あるの?」
「……はい。よく行くので」
歩がぱっと笑顔を咲かせる。
「それ最高! 新鮮で間違いない」
朱鷺子も頷いた。
「予算の相談もできる。品質も確保できるし」
視線が集まる感覚は、少しこそばゆい。けれど、不思議と嫌じゃない。
(……私の意見を、ちゃんと聞いてくれる)
それだけのことが、胸の奥を静かに温めた。
「じゃあ、仕入れは美作を中心に班を組んで進めよう。商店街にお願いしてみてくれ。交渉内容はこの用紙に残すように」
先生のまとめに合わせて、班表に名前が書き込まれていく。歩と朱鷺子が当然のように私の隣の欄に入って、親指を立ててみせた。
(戻って来られたんだ)
黒板の「焼きそば・お好み焼き」の文字が、目にやわらかく映る。去年の私には触れなかった場所に、指先がちゃんと届いている。
***
放課後。
商店街のアーケードは、夕方の湿り気をまとっていた。いつもより少し早い雨が、ビニール傘に柔らかく弾ける。軒先の提灯が灯りはじめて、濡れた路面に赤い丸が揺れる。
仕入れのリストを折りたたんで、鞄にしまう。
(八百屋さんにはキャベツともやしをお願いして……魚屋さんにはいか。肉屋さんは豚バラ薄切り……)
頭の中で段取りを並べると、不安よりも先に小さなやる気が立ちのぼる。こういうことなら、たぶん私にもできる。
人通りの多い本通りを外れて、店の裏手へ抜ける細い路地に入る。アーケードの明かりが途切れて、雨音だけが近くなる。濡れた段ボールの匂い、冷えた鉄の匂い。人の気配は少ない。
「……和葉」
背中に、冷たい指先が這うみたいな声が触れた。
足が止まる。振り返る前から、誰なのか体が先に理解して、呼吸が浅くなる。
傘の縁越しに見えた顔は、笑っていて、目が笑っていなかった。
「迎えに来たんだ」
作ったような柔らかい声。私の名前を言うときだけ、舌にざらりとした棘が混じる。
喉が固い。声が出ない。
「銀行の件、分かってるよな」
義父は半歩近づく。傘と傘が触れて、小さく音が鳴る。
「窓口がごねててな。本人じゃないとダメなんだとさ。だから、ちょっと来い」
差し出された手が、私の肘のあたりの空気を押す。その圧で、足が路地の奥へ一歩、勝手に下がる。
「……いや……」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。雨にすぐ溶けてしまう。
「大丈夫だって。すぐ済む」
笑顔のまま、指先がこちらに伸び、手首を掴んだ。
冷たい力が食い込んで、息が詰まる。
「……その手を離せ」
雨音を割って、低く平坦な声が落ちた。
義父の肩がわずかに跳ね、ゆっくりと振り向く。私も釣られるように、その先を見る。
路地の入口、薄い光の縁に、黒い傘の輪郭。
濡れた舗道にまっすぐ立って、こちらを見ている。
呼び慣れた名前が、胸の内側で自然に形になる。
(――いつきさん)
指先から力が抜けて、傘の柄を持ち直す。雨は相変わらず降っている。けれど、その人の声だけが、雨より確かだった。
私は息を吸う。次の瞬間を待つみたいに。
無職では不安よな。義父、動きます。
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