Side:和葉 2023年10月7日(土)
土曜の午前、チャイムの音が響いた。
慌てて玄関に駆けると、歩と朱鷺子が立っていた。二人とも手に小さな包みを持っている。
「今日はよろしくお願いします!」
「……母に、これ持っていきなさいって言われて」
歩は焼き菓子の袋を、朱鷺子はきちんと包まれた和菓子を差し出した。
「ありがとう。お母さんにお礼言っておいてね!」
二人の家族にもいつきさんのことを認めてもらえている――そのことが、嬉しかった。
リビングに通すと、御子神さんが早速すり寄っていく。
「わっ、かわいい!」
「……ほんと、人見知りしない子ね」
二人が夢中で撫で始める横で、私はこたつの上に教科書を並べた。
***
こたつの上にノートや教科書を広げて勉強会が始まった。
……はずなのに。
「先生、ここ全然わかりません!」
歩がいつきさんの横にぴたりと座り、肩を寄せる。ノートを覗き込む顔が、やけに近い。
「……ここは公式を使えばいい」
いつきさんは真顔で解説しているけれど、私は気が気じゃない。
(近すぎないっ……!?)
朱鷺子が視線をこっちに向け、にやりと笑った。
「……ふふ」
「な、なに?」
「別に」
胸がざわざわして落ち着かない。
***
「先生、こっちも! この式の途中が〜」
歩がまた身を乗り出して、いつきさんにくっつきそうになる。
(もう……絶対わざとだよね!?)
ペンを持つ手に力が入り、字が歪む。集中できない。
ちらりと見やると、いつきさんは表情ひとつ変えず淡々と説明していた。
でも、ふとした瞬間に私と目が合う。
視線が絡んで、思わず俯いた。
「……お前ら」
低い声が落ちた。
びくっとして顔を上げると、いつきさんが歩と朱鷺子をじっと見ていた。
「真面目にやらないなら、夕飯は出さないぞ」
低い声が落ちると、空気がぴたりと張りつめる。
顔を上げると、いつきさんが腕を組んでこちらを見ていた。
「え、えへへ……ごめんなさい」
歩が頭をかき、朱鷺子も小さく咳払いしてノートに視線を戻す。
私は胸の奥をそっと撫でおろした。
(やっぱり……ちゃんと気付いてたんだ)
***
夕方。
台所にはじんわりと炒め玉ねぎの甘い香りが広がっていた。
「もう少し色がつくまで、ゆっくり混ぜろ」
「はいっ」
木べらを握りしめ、私はフライパンの中を丁寧にかき回す。
横でいつきさんが人参とじゃがいもを切っていて、トントンと包丁の音が耳に心地いい。
こうして隣に並んで料理をするのは久しぶりで、それだけで胸の奥がくすぐったかった。
時折ちらっと横顔を見られるたび、さっきまでのモヤモヤがじんわり薄れていく気がした。
リビングでは、歩と朱鷺子が御子神さんを相手に夢中で遊んでいる。
「ほら、また鉛筆追いかけてる!」
「……この子、本当に人懐っこいわね」
二人の笑い声が遠くに響く。
***
湯気の立つカレーをテーブルに並べると、歩が歓声を上げた。
「わぁ〜、カレーだ!」
歩がスプーンを手にして真っ先に口へ運ぶ。
「……美味しい! でも思ったより甘口なんだね」
いつきさんが小さな瓶を取り出し、テーブルに置いた。
「和葉が辛いの苦手だからな。辛いのが好きなら、これをかけろ」
私は思わずスプーンを止め、頬がじんわり熱くなる。
「……いつきさん、いつも私に合わせてくれるから」
「別に問題ない。俺は後から調整できるしな」
さらりと返す声がどこか優しくて、胸の奥が温かくなった。
「……やっぱり、大事にされてるのね」
朱鷺子がさらりと口にした。
すると歩が急にスプーンを掲げて、真顔で宣言した。
「よし、決めた! 私、弓削さんちの子になる!」
「……そうね。愛人枠は空いてるかしら」
朱鷺子まで平然と続けるものだから、思わず机をばんっと叩いた。
「い、いつきさんはあげない!」
声を張り上げると、二人は顔を見合わせて吹き出した。
「ぷっ……和葉、真っ赤」
「ほんと、分かりやすいわね」
頬をふくらませる私を横目に、いつきさんは苦笑いを浮かべてカレーをすくった。
「……女三人寄ればなんとやら、か」
スパイスの香りに包まれた食卓は、笑い声でいっぱいだった。
***
食後、片付けを済ませてから湯気の立つお茶をそれぞれに配った。
湯呑みを手に取り、ほっと息をついたところで――。
「で、結局テストのほうはなんとかなりそうか?」
いつきさんが軽く湯呑みを傾けながら問いかける。
「……うん。今日やったところは、だいぶ分かるようになったかも」
歩が胸を張る。
「私も。最初は全然だったけど、ちゃんと整理できた気がするわ」
朱鷺子も静かに頷く。
「……私もです。やっぱり、一緒にやると分かりやすいし、励みになるから」
自然と笑みがこぼれていた。
「そうか。それならよかった」
短い言葉だったけれど、いつきさんの声はどこか安心しているように響いた。
お茶を飲んでひと息ついたあと、いつきさんが時計を見て言った。
「だが……まだ時間はある。続きやるか」
「えー……」
歩が情けない声を上げると、朱鷺子が「……やらないと意味がないわ」と冷静に返す。
いつきさんがふと思い出したように付け足した。
「親御さんには連絡しておけよ。少し遅くなるから」
「あ、そうだね」
歩と朱鷺子が慌ててスマホを取り出し、それぞれ家にメッセージを送る。
「……了解って。九時くらいまでならいいって」
「私も大丈夫」
「よし。じゃあ、やりますか!」
歩が気合を入れ直し、こたつの上にノートを広げた。
こたつの上に再びノートが広がる。
私は迷わず、いつきさんの隣に座った。
わざと肩が触れるくらい近づいて、歩に「ここは譲らないから」という顔をしてみせる。
「和葉が威嚇してる……」
小声で歩がくすっと笑い、朱鷺子が「まあ、当然よね」と小さく肩をすくめる。
からかわれて顔が熱くなったけれど、席は絶対に譲らなかった。
そこからは、意外なほど集中できた。
歩も朱鷺子も、さっきまでのふざけた様子はなく、真剣にノートに向かっている。
ときどきいつきさんが淡々と指摘し、私たちが「なるほど」と頷く。
鉛筆の音と御子神さんの小さな寝息だけが部屋に満ちていた。
***
時計の針が九時を指したころ、いつきさんが手を叩いた。
「そろそろ切り上げだな。送っていく」
「えっ、いいんですか?」
「こんな時間に歩いて帰らせるわけにいかないだろ」
***
車に乗り込み、順に送り届ける。
街灯の明かりに照らされて、歩が振り返りながら大きく手を振った。
「今日はありがとー! またよろしくお願いします!」
「……本当に助かりました」
朱鷺子もきちんと頭を下げてから降りていった。
ドアが閉まり、車内に二人きりになる。
静けさの中で、ふといつきさんがこちらを見た。
「……ちゃんと集中してたな」
「えっ……あ、はい!」
突然の言葉に胸がどきんと跳ねる。
暗がりの中でも顔が赤くなるのが分かって、慌てて窓の外に視線を向ける。
その言葉だけで、今日一日の疲れがふっと溶けていく気がした。
かなり長くなってしまいました。
ちゃんとした長いエピソードを書いてみたいのですが、なかなか難しい....もっと色々勉強しないとなって思います。
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本日もご覧いただき、ありがとうございました。




