Side:和葉 2023年9月1日(金)
鏡の前で制服のボタンを留めながら、小さく息をついた。
高校の制服に袖を通すのは、今日が初めてだ。
新品のブレザーはまだ少し硬くて、肩のあたりが落ち着かない。
そして――胸元。
(……きつい)
見た目は変わらないはずなのに、布地が押し返される感覚がはっきり分かる。
あの家にいた頃は、まともにご飯なんて食べさせてもらえなかった。
でも、ここに来てからは毎日きちんと食べている。
炊きたてのご飯。
香り立つお味噌汁。
煮物も炒め物も、ひと口ごとに体が温かくなる。
自分でも料理はするけれど、いつきさんのご飯は、いつも私のことを考えてくれている味だった。
お腹に手を当ててみる。
そこはむしろ前よりすっきりしている気がする。
じゃあ、このきつさの理由は――胸。
じわっと顔が熱くなる。
(どうして、こういうところばっかり……)
深呼吸をひとつして、リビングへ向かった。
***
「少しきつくないか?」
低い声に肩が跳ねる。
「丈は大丈夫なんですけど……ここが、ちょっと」
胸元を押さえると、いつきさんは一瞬視線をそらしてから言った。
「辛いなら新しく用意する。今日は無理するなよ」
叱られるかと思っていたのに、返ってきたのは落ち着いた声だった。
「はい」
それだけで、背筋が自然と伸びる。
***
玄関へ向かうと、御子神さんが足元にすり寄ってきた。
「おっと、今日はダメだ」
制服に毛がつかないように、いつきさんが抱き上げる。
「行ってきます」
「ああ。気をつけてな」
その声を背に、扉を開けた。
***
外の空気は少しひんやりしていた。
夏の名残はあるのに、風には秋の匂いが混じっている。
この家から学校へ向かうのは、今日が初めてだ。
見慣れたはずの街も、出発地点が違うだけで別の場所みたいに感じる。
信号、商店、静かな歩道。
一歩進むごとに、心臓の音がはっきりする。
(大丈夫。今日はちゃんと行く)
今朝の「無理するなよ」が思い出される。
私は、小さくうなずいた。
***
校門をくぐった瞬間、足が止まりかけた。
けれど、そのまま進む。
昇降口ではなく、職員用の玄関から入るように言われている。
廊下に靴音が響く。
職員室の前で、もう一度だけ深呼吸をした。
「――美作」
顔を上げると、担任の先生がこちらを見ていた。
入学手続きのときに一度会っただけの人。
ほとんど話したことはない。
「来たか。体調は大丈夫そうだな」
「はい」
「無理はするな。何かあれば言え」
簡潔な言葉。
でも、突き放す感じはない。
それだけで、少しだけ足元が安定する。
***
先生と一緒に教室へ向かう。
扉の前で立ち止まると、先生が軽くうなずいた。
「席は用意してある。普通に入れ」
扉が開く。
「今日から美作が登校する。騒ぐなよ」
いっせいに向けられる視線。
一瞬、体が固まる。
けれど。
「和葉!」
「おかえり!」
歩ちゃんと朱鷺子が立ち上がって手を振った。
胸の奥の緊張が、ほどける。
「ただいま」
教室の空気は思っていたよりやわらかい。
息ができる。
***
午前中の授業は、思ったより落ち着いて受けられた。
周囲も必要以上に触れてこない。
昼休みになると、歩ちゃんと朱鷺子が当然のように机を寄せてきた。
「和葉、一緒に食べよ!」
「待ってたんだから」
笑いながら誘われて、胸の力が抜ける。
箸を動かしていると、歩ちゃんがにやりと笑った。
「浴衣のときも思ったけどさ、ちょっと大人っぽくなったよね。特に胸」
教室が一瞬ざわつく。
「ちょっと歩ちゃん!」
真っ赤になる私に、朱鷺子が冷静に続ける。
「前は少し痩せてたけど、今は健康的よね。胴は戻ったのに胸だけ増してるのは反則だけど」
「反則って何!」
「制服も買い替えになると……負担かけちゃうし」
ぽん、と肩を叩かれる。
「成長期です、で終わり! 堂々としてなさい」
二人の笑い声に、私もつられて笑った。
***
放課後、三人で商店街を歩く。
「弓削んとこの嬢ちゃんじゃないか!」
八百屋のおじさんが声をかけてきた。
「今日から学校に通います」
「よし、祝いだ!」
袋いっぱいの果物を渡される。
「ありがとうございます!」
袋はずっしり重いのに、足取りは軽い。
***
二人と別れ、家へ向かう。
玄関の前に立つと、ふわりといい匂いがした。
合鍵を差し込み、扉を開ける。
「ただいま!」
3章は学校中心となるので和葉がメインの話が多くなると思います。
和葉>歩>>朱鷺子です。
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本日もご覧いただき、ありがとうございました。




