2023年3月25日(土)⑤
「診察は無事に終わりました。外傷はありませんが……いくつか、古い痕が残っていました」
「……やっぱり」
知っていた。ばあさんから聞いて、ある程度は覚悟していた。
それでも、“医者の口から”聞かされると、それは急に現実味を帯びて重くなる。
「外傷よりも、気になるのは心のほうですね。
あの子……とても、疲れていました」
「……ですよね」
俺が返すと、先生は軽く頷き、それから診察室のドアを開けてくれた。
「どうぞ。本人にもあらためて、今後の話をしましょう」
診察室に入ると、彼女――少女は椅子に座っていた。
視線は伏せていたが、俺に気づくと、わずかに顔を上げる。
「今夜どうするか、いくつか選択肢があります」
先生の声は、少女に向けられていた。
「ご自宅に戻るという方法。交番や警察で保護を求めることもできますし、児童相談所に連絡することも可能です」
「……どうしますか?」
少女はしばらく黙っていたが、やがて静かに首を横に振った。
その仕草には、はっきりと拒否の意志がにじんでいた。
そして、彼女の視線がこちらへ向く。
まっすぐに、俺を見つめていた。
……その意味は、言葉にされなくてもわかる。
でも俺は、最初から“自分の家に連れて帰る”なんて選択肢は考えていなかった。
そういう立場じゃない。そういうリスクは負えない。
「……弓削さんのところが、いいです」
その一言は、真っ直ぐで、静かだった。
「……信用してくれてるのは、ありがたい」
ぽつりと、それだけは素直に伝えた。
「知らない大人が怖いって気持ちも、わかる。
そのうえで俺を選んでくれたってことも……ちゃんと伝わってる」
「でも、それでも――俺から“うちに来い”なんてことは、言えないんだ」
「未成年の女の子を、独身の男が家に泊める。
どう見られるか、何を疑われるか……想像できるだろ」
「俺は、自分のためにも、お前のためにも、その線は越えたくない」
少女は、言葉を返さなかった。
でも、その目はゆるやかに揺れていた。
「……じゃあ、今夜はこちらで預かりましょう」
各務先生が静かに提案してくれた。
「経過観察という形で、一晩だけ入院ということにしておきます」
「……助かります」
俺が頭を下げたそのとき、また、少女の声が聞こえた。
「……できれば……弓削さんも、一緒にいてくれたら……」
その声はかすれていたけれど、はっきりと意志があった。
「……そうか」
弓削は少しだけ眉を下げて、短く返す。
「けど、すまない。それも無理なんだ」
彼女がこちらを見つめる。
「家に猫がいる。三毛で、さみしがり屋なんだ。
俺がいないと、玄関でずっと鳴いてる」
「……猫」
少女の声が少しだけやわらいだ。
「……好き、です。猫」
「そうか」
それ以上、弓削は何も言わなかった。
***
「明日、あらためて児相に連絡を入れます。
こちらから状況を説明する形になるかと」
「……わかりました。俺も同席します」
「助かります。保護の経緯や接触時の様子を、実際に関わった方から話してもらえるのはありがたいです」
「こっちも、最後まで責任は持ちますんで」
少女がこちらを見上げているのに気づき、弓削は少しだけ口元を緩めた。
「……じゃあ、また明日来るから。ここでゆっくり休んでくれ」
「……はい」
その返事は、ほんの少しだけ声が柔らかくなっていた。
***
病院の外に出ると、空気が冷えていた。
銭湯で温まったはずの身体から、じわじわと熱が奪われていくのがわかる。
(……風呂、入った意味あったか?)
苦笑しながら歩く帰り道、思考は自然と今日の出来事を反芻していた。
少女のこと、銭湯での出来事、病院でのやりとり。
全部が現実のはずなのに、どこか遠い出来事のように思える。
(……でも、たぶん正しかった)
まだ全部が終わったわけじゃない。
だけど、今日は一つ、“悪い夜”を止められた気がした。
***
鍵を開ける音に反応して、玄関までトコトコと駆け寄ってきたのは三毛猫だった。
「ただいま」
短く声をかけると、猫は小さく「にゃあ」と鳴いた。
その声には文句と、少しだけ安心が混ざっている気がした。
「悪い。ちょっと遅くなった」
弓削はそのまま靴を脱ぎ、台所へ向かう。
猫のごはんを用意しながら、いつもより大きめの独り言をつぶやいた。
「せっかく温まったのにな……冷えたよ、帰り道」
ごはん皿を差し出すと、猫は嬉しそうに尻尾を立てて食べ始める。
その様子を見ているだけで、少しだけ心がほどけていく。
世話を終えて洗面所で顔を洗い、寝巻きに着替え、灯りを落とす。
布団に入ると、猫が自然と足元に丸くなった。
小さな呼吸音が、静かな部屋の中に広がる。
(……明日も、ちゃんと向き合わないとな)
そんな言葉が、心の中にぽつりと落ちた。
今回もご覧いただきありがとうございます。
本当は日が変わる前に出したいんです。
だけど、どういうわけかテンションが上がらないんです。
暫くは最低1日1回の投稿を目指し頑張ります。