2023年4月1日(土)⑤
「診察は無事に終わりました。外傷はありませんが……いくつか、古い痕が残っていました」
「……やっぱり」
知っていた。ばあさんから聞いて、ある程度は覚悟していた。
それでも、“医者の口から”聞かされると、急に現実味を帯びて重くなる。
「外傷よりも、気になるのは心のほうですね。
あの子……とても、疲れていました」
「……ですよね」
俺が返すと、先生は軽く頷き、それから診察室のドアを開けてくれた。
「どうぞ。本人にもあらためて、今後の話をしましょう」
診察室に入ると、彼女――和葉は椅子に座っていた。
視線は伏せていたが、俺に気づくと、わずかに顔を上げる。
「今夜どうするか、いくつか選択肢があります」
先生の声は、和葉に向けられていた。
「ご自宅に戻るという方法。交番や警察で保護を求めることもできますし、児童相談所に連絡することも可能です」
「……どうしますか?」
和葉はしばらく黙っていたが、やがて静かに首を横に振った。
その拒絶は、はっきりしていた。
そして、視線がこちらへ向く。
まっすぐに、俺を見ている。
……意味は、わかる。
だが俺は、最初から“自分の家に連れて帰る”という選択肢は考えていなかった。
そういう立場じゃない。そういうリスクは負えない。
「……弓削さんのところが、いいです」
真っ直ぐな声だった。
「……信用してくれてるのは、ありがたい」
それだけは素直に言った。
「知らない大人が怖いって気持ちも、わかる。
そのうえで俺を選んでくれたってことも……ちゃんと伝わってる」
「でも、それでも――俺から“うちに来い”なんてことは、言えない」
「未成年の女の子を、独身の男が家に泊める。
どう見られるか、何を疑われるか……想像できるだろ」
「俺は、自分のためにも、お前のためにも、その線は越えたくない」
和葉は何も言わなかった。
ただ、その目がわずかに揺れる。
「……じゃあ、今夜はこちらで預かりましょう」
先生が静かに提案してくれた。
「経過観察という形で、一晩だけ入院ということにしておきます」
「……助かります」
頭を下げた、そのとき。
「……できれば……弓削さんも、一緒にいてくれたら……」
かすれた声だったが、はっきりと意志があった。
「……そうか」
短く答えながら、眉がわずかに下がるのを自覚する。
「けど、すまない。それも無理なんだ」
まっすぐ見返す。
「家に猫がいる。三毛で、さみしがり屋なんだ。
俺がいないと、玄関でずっと鳴いてる」
「……猫」
その声が、少しだけやわらいだ。
「……好き、です。猫」
「そうか」
それ以上は、言葉が出なかった。
***
「明日、あらためて児相に連絡を入れます。
こちらから状況を説明する形になるかと」
「……わかりました。俺も同席します」
「助かります。保護の経緯や接触時の様子を、実際に関わった方から話してもらえるのはありがたいです」
「こっちも、最後まで責任は持ちますんで」
和葉がこちらを見上げているのに気づき、口元がわずかに緩んだ。
「……じゃあ、また明日来るから。ここでゆっくり休んでくれ」
「……はい」
その返事は、ほんの少しだけ柔らかかった。
***
病院の外に出ると、空気が冷えていた。
銭湯で温まったはずの身体から、じわじわと熱が奪われていく。
(……風呂、入った意味あったか?)
苦笑しながら歩く。
今日の出来事が、頭の中で何度も反芻される。
少女のこと。銭湯でのこと。病院でのやりとり。
全部現実なのに、どこか遠い。
(……でも)
雨上がりの路面が、街灯を鈍く反射している。
足音が、やけに大きく響いた。
***
鍵を開けると、玄関までトコトコと駆け寄ってくる影。
「ただいま」
小さく鳴く声。
文句と、少しの安心。
「悪い。ちょっと遅くなった」
フードを皿に入れる。
尻尾が立つ。
「せっかく温まったのにな……冷えたよ、帰り道」
食べる音を聞きながら、ようやく肩の力が抜けた。
灯りを落とし、布団に入る。
足元に丸まる温もり。
小さな呼吸が、部屋の静けさに溶けていく。
(……明日だな)
天井を見つめたまま、目を閉じた。
今回もご覧いただきありがとうございます。
本当は日が変わる前に出したいんです。
だけど、どういうわけかテンションが上がらないんです。
暫くは最低1日1回の投稿を目指し頑張ります。




