2023年8月25日(金)
明け方。
隣の布団から伸びてきた和葉の手足に何度も蹴られ、熟睡はできなかった。
諦めて布団を抜け出し、浴室へ向かう。
檜の香りに包まれ、肩まで湯に沈めるとようやく深く息が吐けた。
窓の外には朝焼けの光が海面を照らし、淡い橙色に染まっている。
(……やっと静かにできる)
束の間の安らぎを味わっていると、襖の開く音がした。
「――ずるい! 朝焼けのお風呂、独り占めしてるじゃないですか!」
振り返ると、バスタオルをしっかり巻いた和葉が立っていた。
「待て。俺はいま水着じゃないぞ」
「タオルで隠せばいいんです! 私もバスタオルです!ほら、おそろいですよ!」
「……理屈がめちゃくちゃだ」
制止する暇もなく、和葉はちゃぷんと湯に飛び込んできた。
じりじりと距離を詰めてきて、気づけば浴槽の端に追い詰められる。
湯の中で肩が触れ、思わず息が詰まった。
「どうして逃げるんですか!?」
「……お前は無警戒すぎなんだ。もっと慎みを覚えろ」
「ここは家族風呂です。家族なんですからセーフです!」
「外では?」
「外ではお淑やかにしてます!」
(……最近押しが強くなってきた。素を見せてくれるのは、信頼の証なんだろう)
仕方なく肩を並べたまま、話を振った。
「……友達とはうまくやれてるのか」
「はい。すごく仲良くしてもらってます」
「この前の祭りで、鷺沢さんが俺を見てうつむいてな。怖がらせたんじゃないかと思ってる。……謝っておいてくれ」
「? そんなことないと思いますよ。むしろいつきさんのこと、羨ましがってましたし」
「……そうか」
少し肩の荷が下りた気がしたところで、ふと思い出して口を開く。
「帰ったら学校の準備もしないとな。……宿題はすんだのか?」
和葉はばつの悪そうに目を逸らした。
「……苦手なところは後回しにしちゃいました」
「やっぱりな」
「帰ったら見てくれませんか?」
無邪気な頼み方に、思わず額を押さえる。
「……仕方ない。家に戻ったらだ」
和葉は嬉しそうに頷き、湯の中でぱしゃりと跳ねた。
「そろそろ朝ご飯の時間ですね。お腹すきました」
「……そうだな。上がるか」
***
朝食会場も昨日と同じくバイキング形式だった。
和葉はまた皿に盛りすぎて、最後には箸を止める。
「……また食べすぎました」
「お前は昨日の後悔をもう忘れたのか」
「旅行の失敗はいい思い出になるんです!」
「……朝から元気そうで何よりだ」
呆れつつも、昨日より更に生き生きしている和葉の顔に安堵する。
***
食後はお土産コーナーへ。
「歩ちゃんと鷺沢さんにも買っていきたいです」
「気が利くな」
「浴衣も貸してもらいましたし……」
小さな菓子袋を二つ、そして――
「御子神さんにはこれにします!」
和葉が両手で抱えたのは、天然素材をうたった高級猫用おやつだった。
「……猫にまで贅沢させる気か」
「留守番してくれたんですから!」
袋を抱えた和葉は、渡すのが楽しみで仕方ないという顔をしていた。
そうしてチェックアウトを済ませ、車へと戻る。
***
高速道路を走り、途中のサービスエリアで軽く昼を済ませた。
「……ソフトクリーム食べてもいいですか?」
「朝からどれだけ食ったと思ってる」
「べ、別腹です!」
「……勝手にしろ」
結局、嬉しそうにソフトクリームを抱えて戻ってきた。
車が走り出すと、助手席で嬉しそうにかぶりつく。
「甘くて美味しいです!」
「それは良かったな」
しばらく味わっていた和葉が、ふと思い立ったようにコーンを差し出してきた。
「一口どうぞ」
「俺はいい」
「え、すごく美味しいのに。ほら、どうぞ?」
口元に押しつけられ、仕方なくかぶりついた。
ガブリと半分ほど持っていく。
「あ……! 一口って言ったのに! ひどいです!」
「……悪い。つい」
助手席から小さな抗議の声が響く。
それでも口元には笑みが浮かんでいて、上機嫌なのは隠せていなかった。
その後もしばらく、和葉は「また来たいです」とか「次は何して遊びます?」と楽しげに話しかけてきた。
けれど次第に声の調子がゆるみ、言葉の切れ目が長くなっていく。
「……眠そうだな。寝てていいぞ」
「……はい……」
小さく返事をして、窓にもたれるように目を閉じた。
やがて静かな寝息が車内に満ちる。
(……はしゃぎすぎたか)
助手席の寝顔をちらりと見やり、アクセルを踏み直した。
***
玄関を開けると、御子神さんがちょこんと座って待っていた。
「ただいま!」
和葉が駆け寄ると、三毛猫は一度ぷいと顔を背ける。
「えっ……拗ねてます?」
けれどすぐに鳴き声を上げ、足にすり寄ってきた。
「よかった……やっぱり寂しかったんですね」
抱き上げて頬を寄せる和葉を横目に、俺は旅行鞄を下ろす。
「夕飯は俺が用意するから、お前は休んでろ」
「……いいんですか?」
「ああ。明日からは宿題の追い込みが始まるからな」
「うぅ……」
御子神さんを抱いたまま、和葉はしょんぼりとうなだれた。
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