2023年3月25日(土)④
夜の住宅街に、小さな明かりがぽつんと灯っていた。
各務医院――表札の上には、白地に藍の控えめなフォントでそう記されている。
外観は古めだが、手入れの行き届いた小さな個人病院だった。
「……ここが、病院なんですね」
少女は、傘の下でかすかに身をすくませた。
緊張しているのは明らかだった。けれど、逃げ出す素振りはなかった。
「大丈夫だ。すぐ終わるから」
そう声をかけると、少女は小さく頷いた。
自動ドアが静かに開く。
待合には他の患者の姿はなく、受付のカウンターの奥に一人の女性が立っていた。
白衣の下はグレーのシャツ。髪は低くまとめられ、落ち着いた瞳と輪郭が印象的だった。
「こんばんは。銭湯のおばあさんから話、聞いてます」
その声は、余計な飾りけもなく、ただ、落ち着いていて、柔らかかった。
「……もしかして、各務さんの奥さん、ですか?」
女医は少しだけ目を細めて笑った。
「ええ。夫からお名前は聞いてます」
「そうでしたか。……彼方さんには、学生の頃から世話になってたんです。
しばらく疎遠でしたが、最近また銭湯で顔を合わせるようになって」
「なるほど。縁が戻るって、いいことですね」
そのやりとりだけで、ずいぶんと緊張がほぐれた気がした。
「じゃあ、診察室へどうぞ」
そのとき、少女がふいに俺の服の裾をそっと指先でつまんだ。
声はなかったが、その小さな仕草に、不安と「一緒にいてほしい」という気持ちが滲んでいた。
「……俺も一緒に行っていいですか?」
「もちろん。最初は一緒に入りましょうか」
女医は頷き、診察室のドアを開けてくれた。
***
「じゃあ、少しだけお話を聞かせてくださいね」
少女は椅子に座り、手を膝の上でそっと重ねていた。
「名前と年齢、教えてもらえますか?」
「……みまさか、和葉。十六歳、です」
「ありがとう。病院は、来るのは久しぶりかな?」
「……あんまり、ないです」
「そう。じゃあ無理はしないからね」
女医はやわらかく微笑むと、俺の方に視線を向けた。
「このあと、少し身体の様子を見せてもらいます。
和葉さんが大丈夫なら、彼にはその間だけ席を外してもらってほしいんだけど……大丈夫?」
和葉はほんの少しだけ頷いた。
「……わかりました」
俺は椅子から立ち上がり、静かに一礼して診察室を後にした。
ドアが閉まる音が、妙に静かに響いた。
***
廊下の椅子に腰を下ろし、目の前の壁をぼんやりと見つめる。
壁に掛けられた時計の針が、静かに動いていた。
ばあさんが言っていた、和葉の痣――おそらくは、虐待か、いじめか。それに類する何かだろう。
俺は実際に見たわけじゃない。
でも、あのとき――びしょ濡れで、傘もささずに座り込んでいたあの子の姿は、今でも頭から離れない。
顔は俯いていた。けれど、ふとこちらを見上げたときの、あの目だけは、強く焼きついていた。
何も言わなかった。
それでも、心のどこかで――本当は、誰かに気づいてほしかった。
そんな想いが、ほんの一瞬、あの目ににじんでいた気がした。
……きっと、もう大人には何も期待していなかったはずなのに。
俺は臆病な男だ。
リスクなんて負いたくないし、巻き込まれるのはごめんだ――そう思って、ずっとそうやって生きてきた。
いつもの俺なら、あんな目に見えた地雷に、自分から近づくなんてあり得なかった。
それでも。
和葉を――あのとき、あんな目をしていた彼女を。
さらに追い込むような大人にだけは、なりたくなかった。
そのとき、診察室のドアが静かに開いた。
各務先生が姿を現す。
「終わりました」
俺は立ち上がり、静かに頭を下げた。
先生は頷き返すと、短く言った。
「少し、お話しできますか?」
この度もご覧いただきありがとうございます。
いつもこんな深夜/明け方の投稿でごめんなさい。
創作自体が初めてで色々塩梅がわかりません。
また、お暇なときにでもお付き合いいただけますと幸いです。