Side:和葉⑧
朝、目を覚ますと台所から包丁の小気味いい音が聞こえてきた。
布団を抜け出してのぞくと、いつきさんがエプロンをかけて朝食を作っていた。
背中越しの姿は不思議と安心感があって、胸がほんのり温かくなる。
「おはようございます」と声をかけると、振り返り「起きたか」とだけ短く返し、焼き魚を皿に移した。
それだけのやりとりなのに、じんわりと笑みが浮かんでしまった。
***
午前中に洗濯や掃除を済ませて、午後は机に向かう。
けれど数式を追う視線は、どうしても背後にいるいつきさんの方へ逸れてしまう。
パソコンに向かって黙々と仕事をしている姿。
カタカタと響くキーの音に合わせて、自分もペンを走らせる。
不思議とリズムが合う気がした。
やがて一息ついたように椅子をのけぞらせた瞬間、私は思いきって声をかける。
「……あの、ちょっと見てもらえますか」
椅子から立ち上がり、こたつに腰を下ろして隣に座る。
近くで見ると妙に緊張して、手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
「ここ、飛ばさずに一つずつやれ」
「……はい」
「慌てなくていい。順番を守ればできる」
低く落ち着いた声が、胸の奥にすっと染み込んでいく。
たったそれだけの言葉なのに、肩の力が抜けて、数字の並びが少しやさしく見えた。
……勉強を見てもらえるのが、こんなに嬉しいなんて。
***
夜、布団を並べて横になったとき。
心臓がどきどきして眠れそうになくて、思わず口が動いた。
「……前に、甘えてもいいって言ってくれましたよね」
「……ああ」
「私、小さい頃から甘えたがりで。母にべったりで……。だから、義父には疎まれてたんだと思います。お母さんの一番には、どうしても私が先にいて……」
言葉にしながら、胸が痛くなる。
けれど、それ以上に聞いてほしいという気持ちが勝った。
「だから……ちょっと怖かったんです。いつきさんにも、呆れられたりするんじゃないかって」
しばしの沈黙のあと、低い声が返ってきた。
「呆れるわけないだろ。子供は大人に甘えていいもんだ。普段から頑張りすぎてるんだからな」
「……はい」
「それに、このままだと、俺が甘えてばっかりじゃないか。……あ、家事のことな?」
思わず小さく笑ってしまう。不公平なんかじゃないのに。
それどころか、頼ってくれることが嬉しい――そう心の中でつぶやいた。
「……手、繋いでもいいですか」
少し間を置いて、「……ああ」。
布団の向こうから、大きな手がゆっくり差し出される。
私はその手を、両手で包み込むようにぎゅっと握った。
片手じゃ足りなかった温もりが、掌から掌へ広がっていく。私の手の中のその重さは、逃げず、動かず、ただそこにいてくれる。
言葉より確かな答えが、指先から伝わる。
胸の奥の強ばりが、ゆっくりとほどけていった。
「……おやすみなさい」
「おう」
布団の中、温もりが伝わってきて胸がいっぱいになった。
ずっと望んでいたものが、ようやく見つかった気がした――。
昨晩は寝落ちしてしまいました…。
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