Side:和葉⑦
小鳥遊さんを事務所に送り届けると、車内は私といつきさんだけになった。
助手席に座ったまま、私は窓の外を流れる景色を眺める。
体の奥に張りついていた緊張がすっとほどけて、代わりにじんわりとした温かさが広がっていった。
いつきさんが「俺の娘に手を出すな」と言ったときの声が、まだ耳の奥に残っている。
息が詰まりそうなくらい熱がこみ上げる。あの一言だけで、自分はもう独りじゃないんだって、心の底から思えた。
***
家に戻ると、今日持ち帰った荷物を少しずつ片付けた。
段ボールを開けるたびに見慣れた持ち物が顔を出し、「もうあの家に戻らなくていいんだ」と心の中で繰り返す。
押しつぶされるような不安から解き放たれるたび、背筋が軽くなっていく気がした。
並べた教科書や文房具を眺めながら、ここで勉強して、ここから学校に通って、普通の毎日を送るんだと未来を想像してみる。
……そんな普通を信じられるのは、隣にこの人がいるからだ。
***
ひと段落ついたところで、いつきさんが「少し休む」と言って、こたつに突っ伏したまま眠ってしまった。
広い背中が静かに上下して、規則正しい寝息が部屋に広がる。
きっとすごく疲れていたんだろう。
私を守って、気を張ってくれて……。そう思うと、胸の内がきゅうっと痛んだ。
私は少しだけ迷ってから、そっとその背中に寄り添うように腰を下ろした。
畳の冷たさが伝わってくるけれど、すぐ後ろから感じるぬくもりに包まれると、不思議と心が落ち着いていく。
背中越しに安心感が広がり、やがて私のまぶたも重くなっていった。
――小さい頃、お父さんの背中に寄りかかって眠った記憶がよみがえる。
ぼんやりとしか思い出せないけれど、確かにそこにあったぬくもり。もう会えない人。
でも今は、違う誰かに守られている。
「……家族なんだ」
声にはならない小さなつぶやきが、心の奥からこぼれた。
***
肩を軽く揺らされて、私ははっと目を覚ました。
夕方になっていて、部屋はオレンジ色に染まっている。
「起きられるか?」
心配そうに覗き込むいつきさんの声に、私はこくりと頷いた。
「……はい」
少し掠れた声で答えると、彼はほっとしたように小さく息をつく。
こたつの上には湯気の立つ急須と湯呑みが置かれていて、胸がきゅっと締め付けられた。――眠っているあいだに、淹れてくれたんだ。
お茶で喉を潤してから、夕飯の準備に取りかかる。
鍋から立ちのぼる湯気に、今日がようやく日常に戻ってきた気がした。
「……いつきさん、ちょっと来てもらえますか?」
居間から足音が近づいてくる。
「どうした」
「味、見てもらえませんか」
菜箸でひと切れをつまみ、思わずそのまま彼の口元に差し出していた。
自分でも何をしているのか、一瞬遅れて気づいて心臓が跳ねる。
けれど、いつきさんは少し目を瞬かせただけで、ためらいなく受け取ってくれた。
「……うん、いい味だ」
それだけ。いつもの低い声で短く答えただけなのに、体の芯まで熱が広がって頬がかぁっと赤くなる。
気づかれないように慌てて鍋に向き直すけど、耳まで熱いのが自分でもわかった。
――ただの味見なのに。鼓動はしばらく収まらなかった。
***
夜、布団を並べて横になったとき、眠気よりも先に言葉がこぼれた。
「……今日、すごく安心しました」
暗がりの中、背中越しに小さな声で続ける。
「あんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもいませんでした」
返事はなかったけど、布団越しに聞こえる落ち着いた寝息が、確かに答えになっているようで。
私はぎゅっと布団を握りしめた。
お父さんなのか、それともお兄さんがいたらこんな感じなのか……。
私たちの関係はふわふわしていて、うまく言葉にできない。
でも――それでも確かに“家族”なんだって心から思える。
もう一人で我慢しなくていい。
甘えてもいい。
ようやく、そう決心できた気がした。
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