2023年6月27日(火)
朝食を終えると、和葉は「スーパー行ってきます」と小さく笑ってエコバッグを手にした。
「暗くなる前に帰れよ」
「はい」
いつもより少し軽い足取りで玄関を出ていくのを見送り、俺はコーヒーを淹れ直した。
金曜の私物回収まであと三日。動くのは義父が昼から外出するタイミングだが、段取りは今のうちに固めておく必要がある。
ノートPCを開き、義父の家の周辺地図を表示する。最寄り駅からのルート、車を停められる場所、搬出にかかる時間……頭の中でシミュレーションを繰り返す。
昼前、大家さんに電話をかけた。事情はすでに東海林さんから伝わっているらしく、「金曜の昼間なら鍵を開けて立ち会いますよ」と快く了承を得られた。
『和葉ちゃん、元気にやってますか?』
「ええ、だいぶ落ち着いてきてます。顔見知りも増えてきました」
『それは良かった。じゃあ、当日は私も一緒に立ち会いますから安心してください』
「念のため、和葉の持ってる合鍵でも入れますが、大家さんも一緒の方が安心です」
『そうですね。第三者が一緒の方が安全でしょう』
短いやり取りの中にも、大家さんの気遣いがにじんでいた。
電話を切ったあと、この前に顔を合わせたばかりの弁護士にも連絡を入れる。
「金曜に動く予定だ」
『了解です。くれぐれも無茶しないでくださいよ、先輩』
「俺より和葉が無茶しないかが心配だよ」
『……確かに』
電話口の向こうで、短く笑う声が聞こえた。昨日の顔合わせで感じたとおり、真面目だが軽口も通じるやつだ。
午後は軽く部屋の掃除をし、猫の水を替える。律儀な御子神さんは、給水皿の水が新しくなると必ず一口飲んでから、ちらりとこちらを見て尻尾を揺らす。
「何だよ、味のチェックか」
思わず声をかけると、尻尾がもう一度ふわりと揺れた。そんな姿を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
***
夕方、玄関が開く音。
「ただいま戻りました」
「おかえり。……荷物多いな」
エコバッグの口から、野菜や果物、それにたい焼きの包み紙が覗いている。
「八百屋のおばさんが『これ持ってきな』って……それから商店街のおじいさんが“彼方のやつに聞いてるから、安心して買いに来い”って」
さらに和葉は、少し困ったように笑って続けた。
「帰りに、この前のカップルさんたちと、その友達にも会って……」
「……大丈夫だったのか?」
「はい。『ちゃんと飯食ってるか』とか、『変なやつに絡まれたらすぐ言えよ』って。それから、お菓子までくれて」
「ずいぶん可愛がられてるな」
「最初ちょっと緊張しましたけど、皆さん明るくて……最後は笑っちゃいました」
どうやら悪い意味ではなく、地元のやんちゃ大学生グループに軽く囲まれて可愛がられたらしい。
「お前、ほんと地元で有名人になりつつあるな」
「……ちょっと恥ずかしいですけど、嬉しかったです」
報告する顔は、ほんのり赤い。差し入れの袋を開けると、湯気の立つたい焼きが甘い香りを漂わせた。
「どっちがいい?」
「カスタードです」
「……お前、甘いの選ぶときだけは迷いないよな」
和葉はたい焼きを両手で受け取り、小さく笑った。
***
夕飯を終え、こたつで並んで座る。湯気の立つ湯呑みを手に、和葉がぽつりと言った。
「……なんか、外に出ても安心できるって、すごく変な感じです」
「普通はそれが当たり前なんだ」
「……金曜のこと、ちょっと緊張しますけど」
「ちなみに、回収するものに目処はつけてるのか?」
「えっと……服と、母がくれたアクセサリーと、本……あと、学校のノートとか」
「全部一度に持ち出せる量か?」
「たぶん。大きい家具は置いていきますし」
「じゃあ運搬用の袋か箱は用意しておくか」
「……ありがとうございます」
和葉は少し考えてから、ぽつりと続けた。
「でも、私がいた痕跡はあんまり残さない方がいいのかなって」
「どうして?」
「なんか……居たって分かると、あの人が怒るかなって」
「……怒らせること心配するよりも、お前が持っておきたいものを優先しろ」
そう言いながらも、胸の奥で安堵する。金曜に向けて、守る輪は少しずつ広がっている。
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