2023年3月25日(土)②
Tシャツとルームパンツのセットを片手に、俺は足早に銭湯へ戻ってきた。
制服は脱衣所にあるコインランドリーで洗って乾かせる。
けれど、風呂から上がったあと、彼女をどこに連れていくにしても――制服姿のままじゃ、さすがに目立ちすぎる。
この時代に、制服の少女を連れて歩くなんて、リスクでしかない。
誰かに見られでもしたら、言い訳なんて通じるはずがない。
だからせめて、目立たない服だけは用意しておこうと思った。
銭湯の前に戻ると、少女は入口の横で傘を差したまま、じっと佇んでいた。
俺の姿を見つけると、ふっと小さく息を吐いたような表情になる。
「買ってきた。……サイズは、たぶん合うと思う」
そう言って差し出すと、彼女はそっと受け取り、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
声はかすれていたが、それでも確かに届いた。
「濡れた服は、脱衣所の奥にあるランドリーで洗える。まず洗濯機に入れて、終わったら乾燥機。15分と10分くらいかな」
彼女が戸惑ったように目を伏せるのを見て、小銭を何枚か取り出して渡す。
「……わからなかったら、番台のばあさんに聞けばいい」
中へ入ると、いつものように番台には白髪のばあさんが座っていた。
小柄な体を丸めたようにして、丸眼鏡の奥の目がこちらを向くと、にこりと笑った。
「おや、今日は早いじゃないか。あんたはだいたい、夜遅くに来るもんだろう」
「ちょっと、冷えちゃってて」
ばあさんの視線がすっと横に向き、少女を見る。
「そちらのお嬢さんは……妹さんかい?」
「いや、知り合い。……訳ありで」
あえて多くは語らなかったが、それで十分だったらしい。
ばあさんは一瞬だけ目を細めると、うんうんと頷いてから言った。
「ま、銭湯は昔からね、事情ありの人も受け入れてきた場所だよ。若い子が来てくれるのは嬉しいもんさ。最近は銭湯離れとか言って、若いのはほとんど来ないからねぇ」
「……助かります。できれば、ちょっと目をかけてやってくれたら」
「うちに来てくれる子は、みんな孫みたいなもんさ。もちろんあんたもな」
にっこりと笑ったその表情は、冗談のようでいて、本気にも見えた。
「入るなら早く入りな。あの子の服は、私が洗濯から乾燥までやっておいてあげるよ」
「ありがとうございます」
「気にしない気にしない。若い子には、気をつかうもんだよ」
少女は少し戸惑ったようにばあさんを見たが、すぐに「お願いします」と小さく頭を下げた。
***
湯船に身体を沈めた瞬間、思わず息が漏れた。
やっぱり、銭湯はいい。
天井に反響するお湯の音、タイルの壁、木のロッカー。
何十年も変わらない空気が、頭の奥から静かに疲れを洗い流していく。
あの子のことがなければ、きっと今日はもっと長湯していた。
けれど、彼女のことを考えると、あまりのんびりもしていられなかった。
痩せた肩、濡れた髪、怯えたような瞳。
明らかに、普通じゃない。
どうするのが正解なんだろう。
家に帰すわけにはいかない。けれど、俺の家に泊めるのも――
ぐるぐると考えが巡る中、俺は風呂から早めに上がった。
***
ロビーに出ると、冷蔵ケースの中に瓶牛乳がずらりと並んでいた。
コーヒー牛乳、フルーツ牛乳、いちご牛乳。
今日はどれにしようか。
俺は銭湯が好きだ。
仕事終わりに湯船で体を伸ばし、湯上がりに瓶牛乳を飲む。
それだけのことが、何よりの癒しになっている。
こういうのも、いつかは紙パックになるのかもしれない。
何も変わらないと思ってたものが、いつの間にか消えていく。
……仕方ないとは思うけど、少しだけ寂しい。
ふと、あの子の顔が頭に浮かぶ。
甘いのとか、好きなんだろうか。
(……聞いてからにしよう)
コーヒー牛乳を一本取り出して番台へ向かうと、ちょうどばあさんが俺に気づいた。
「もう出たのかい?」
「ええ、長湯って気分でもなくて」
瓶を差し出し、代金を置こうとしたとき、ばあさんの表情が少しだけ曇った。
「……あの子ね」
口調はいつもと変わらない。けれど、声だけが少し静かだった。
「背中と足に、ひどい痣があったよ。あれは……ただ転んだとかじゃないね」
俺は、言葉が出なかった。
ご覧いただきありがとうございます。
前回は週に1~2回と言いましたがもう少し頑張ってみようと思います。